ナルシシズムが他者の尊重につながる『千葉ルー』済東鉄腸が信じる“俺”の肯定
#書籍
「俺」という一人称にこだわった理由
――第8章「俺は俺として、ひたすら東へ」では、フェミニズムの知見、あるいは一部のラディカル・フェミニストの主張やトランスジェンダー排斥といった状況を踏まえて“俺”という一人称を使うことへの逡巡を経て、自身のナルシシズム、自己肯定感や自尊心と向き合っているのも印象的です。ナルシシズムの肯定に抵抗がある人も多いのでは、と思うのですが、このパートに対する反響はありましたか?
済東 ナルシシズムってやっぱりこれまでは「厨二病(笑)」とかバカにされていたと思うんですよ。ただ、「自分はこれでいいのか?」と葛藤を繰り返した先で「大丈夫、これでいこう!」と自分や自尊心を肯定すると、必然的にナルシシズムがついてくるわけです。そうやって自分を肯定できるようになると、相手のことを考えたときに「この人も自分なりの価値観があって、だからこういうふうに生きているんだな」とわかる。そうすると、イメージだけで人間を語れなくなります。
例えば、韓国映画好きのマダムを「イケメン俳優の顔が好きなだけのミーハー」とバカにする人っていますよね。でも、あのマダムたちほど韓国文化や韓国語を学んで、実際に韓国に足を運んで、生きている実感を得る人たちなんてなかなかいないわけです。だから、まず自分の自尊心を肯定してあげると他者のことを単純に「すげー!」って思えるし、尊ぶことができる。自尊心とナルシシズムの肯定は、相手の尊重にもつながるはずです。
それで『千葉ルー』の核として、自分を肯定する、ナルシシズムだって絶対にある程度あっても良いじゃないか、ということを書きました。
実際に、読者の方からは「“俺””俺”言いすぎててウザい」「自分語りすぎてヤバい」みたいな反応もあります(笑)。
それでも、チャールズ・ブコウスキーや、子どもの頃に好きだった『仮面ライダー電王』(テレビ朝日系)の「俺、参上!」といった決めゼリフの影響だったり、自分が昔好きだったモノを否定したくない気持ちが強くあった。ほかにも二葉亭四迷の『浮雲』みたいな言文一致体だったりと、『千葉ルー』はとにかく自分が影響を受けたものを複合的に反映した結果として、“俺”という一人称を選びました。普遍的な話じゃなくて、2022年に30歳になる日本に住んで日本語で育ってきた人間にしか書けない”めっちゃ特殊”を目指したんです。
本の中ではマンガ『BLEACH』や『ジョジョの奇妙な冒険』(共に集英社)を(同時代的な体験として)挙げたり、自分が平成を生きてきた感覚も入れてるので、読者から「同世代にこんな人がいて勇気づけられた」と言ってもらえるのはすごく嬉しい。本当はもっと「ウザい」って言われて、賛否両論半々くらいかと思ってたんですよ。でも、実際には賛7否3くらいで、みんな思ってたより懐が広かったです。今後もエッセイを書いていくにあたっては“俺”を使っていきたいですね。
――ナルシシズムを自己愛の一つの形として捉えると、女性誌では「自分を愛する」という言葉が使われたり、ギャル的な「うちら最高」マインドだったり、女性の間では比較的受け入れられているように感じます。一方、男性のナルシシズムは女性よりも忌避感を持たれるように思われます。男性はセルフケアを怠りがちといわれますが、それも同根なのかなと。
済東 ナルシシズムについて男女区別して考えたことはあまりなかったけれど、確かに言われてみるとギャルみたいに男性がナルシシズムを全肯定するのは珍しいかもしれません。この本が“男性のナルシシズム”という文脈で読まれるのは面白いですね。
今、俺は“脱・引きこもり”をやっていて、そこですごく考えるのは“生活をしていく”ということなんですよ。外に出て、みんなと語り合って、自分でお金を稼いでいく……そうやって生活していく中では、絶対にセルフケアについても考えなくてはいけない。だから、自己肯定とセルフケア、そして生活していくことのつながりを考えるのは、俺自身にとっても重要です。
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