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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 『遠野物語』に着想を得た⼭⽥杏奈主演作
深読みCINEMAコラム【パンドラ映画館】Vol.744

山田杏奈、森山未來が“山人”を演じた『山女』 日本人のアイデンティティに迫る異色作

山田杏奈、森山未來が“山人”を演じた『山女』 日本人のアイデンティティに迫る異色作の画像1
村人たちから恐れられる“山男”を演じた森山未來

 岩手県遠野地方は四方を山々に囲まれ、さまざまな不思議な伝説が言い伝えられている。民俗学者の柳田國男がこれらの逸話を編纂したのが『遠野物語』だ。遠野で暮らす人々が自然と共存し、神々を崇め、そして恐れながら生きてきたことが分かる。

 明治時代末期に刊行された『遠野物語』に着想を得て映画化したのが、山田杏奈、森山未來、永瀬正敏、三浦透子らが出演した『山女』だ。米国での生活が長かった福永壮志監督が、独自の視点から日本人のアイデンティティーを浮き彫りにした異色の社会派ドラマに仕立てている。

 物語の舞台となるのは、18世紀後半の東北の寒村。折からの冷害で、村人たちは食べる物に困っていた。そんな村の中でもいっそう厳しい生活を強いられているのが、伊兵衛(永瀬正敏)、娘の凛(山田杏奈)たち父子だった。先々代が罪を犯したために、田畑は奪われ、死体を埋めるなどの不浄の仕事を請け負うことで生きながらえていた。貧しい暮らしながら、目の不自由な弟の庄吉(込江大牙)と一緒に草鞋を編んでいるとき、凛は心の安らぎを感じている。

 ある日、飢えに耐えられなくなった伊兵衛は村の米を盗んでしまい、村の重役(でんでん)らに咎められる。村での窃盗は重罪だ。伊兵衛の罪を身代わりに被ったのは、娘の凛だった。凛は村を出て、山へと向かう。村人たちが決して足を踏み入れることのない山奥の神聖な森で、凛が出会ったのは異形の姿をした山男(森山未來)だった。

 一方、凛が去った後の村では翌年も冷害が続き、神様に若い娘を人柱として捧げることが決まる。誰を人柱にするのかで、村は紛糾することになる。

日本人の源流を感じさせる『遠野物語』

山田杏奈、森山未來が“山人”を演じた『山女』 日本人のアイデンティティに迫る異色作の画像2
伊兵衛(永瀬正敏)は先祖の罪を背負わされ続け、納得できない

 福永監督は、NYで暮らすアフリカ移民を主人公にしたデビュー作『リベリアの白い血』(15)が話題となり、北海道で暮らすアイヌの人々を描いた第2作『アイヌモシㇼ』(20)も国内外で高い評価を受けている。本作は3本目となる劇場映画だ。

 異なる文化の対比を描くのが、福永監督はうまい。『リベリアの白い血』では、貧しいながらも家族と暮らすアフリカのゴム園での生活と、NYで非合法のタクシー運転手として孤独に働く日々が対照的に映し出されていた。『アイヌモシㇼ』では現代社会に生きる主人公の少年とアイヌの伝統的文化や世界観とのギャップが鮮明に描かれた。異なる価値観のはざまで、福永監督作品の主人公たちは葛藤することになる。

 本作の主人公となる凛も、差別や身分格差の激しい村を離れ、何もない山で暮らすことで、初めて人間らしく生きることを実感する。人間社会と大自然での生活が実に対照的だ。2003年以降、長年にわたって米国で暮らしてきた福永監督だけに、同調圧力やジェンダー不平等の強い日本社会に対する客観的な視線を感じる。

 本作の原案となった『遠野物語』に興味を持った経緯などを、福永監督に語ってもらった。

福永「海外での生活が長かったんですが、2019年に日本に戻って、僕の故郷である北海道で『アイヌモシㇼ』を撮りました。アイヌ文化について調べていくうちに、日本人のアイデンティティとは何だろうということに興味が湧き、いろんな昔話や『遠野物語』を読みました。『アイヌモシㇼ』は夏と秋冬に分けての撮影だったので、その合間に遠野も訪ねました。『遠野物語』が編纂された頃の東北は、昔からの民間信仰などが色濃く残っていた地域でした。短い逸話がほとんどですが、『どこどこの誰々が……』と不思議な出来事が現実のこととして採録されているところに惹かれました。人間と自然との関わり方がとてもリアルで、日本人の源流みたいなものが感じられたんです」

 河童や座敷わらしなど『遠野物語』には不思議な存在も語られているが、福永監督は山男や山女といった人里から離れた山々で暮らす山人(やまびと)をクローズアップする形で映画化している。

福永「人間には理解できない存在が『遠野物語』では語られていますが、そのまま映像化してしまうと妖怪たちが出てくるファンタジーになってしまいます。僕が『遠野物語』を読んで面白いと感じたのは、人間と自然との関わりであり、さらに自然の中に見出された神々や、人間の理解が及ばない存在についてでした。映画化するにあたっても、人間社会と地続きのものを描こうと考え、山男は完全な妖怪としては描いていません。一方の凛も、彼女自身は何も変わっていませんが、村人たちの目には凛が山女として見られるようになっていくという展開にしています」

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