『怪物』もまた…是枝作品の家族は再生しないまま終わる
#しばりやトーマス #世界は映画を見ていれば大体わかる #是枝裕和
先日のカンヌ映画祭で大変な話題になったという是枝裕和監督の最新作『怪物』を観た。是枝裕和という人は現代日本の映画界においてトップクラスの存在であり、世界に通用する製作者でもある。作品としての評価も高いし、興行面においても問題がない。稼げて、その上、面白いのだからたまらない。
作品自体が論争を呼ぶものであることが多い。第71回カンヌ映画祭の最高賞、パルム・ドールを受賞した『万引き家族』(2018)では血縁のない人々が疑似家族として暮らしており、マンションの一室で虐待されていた子供を見かねて助け出す。誘拐ではないのかという子供に「これは保護しているだけ」と父親が言い張る。
家族は年金を不正受給し、父と息子は万引きを繰り返して逞しく生きる。公開時には「犯罪行為を美談にしている」といった批判があった。同じような批判は翌年にやはり、カンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞し、アカデミー賞で作品賞を含む6部門制はとなった韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』(2019)にも起きた。世界的には韓国映画史上初のパルム・ドール、アカデミー受賞作品となり大変な反響があったとされるが、底辺の生活をする一家が金持ちに寄生し、挙句殺人行為まで犯す様に。
「韓国には他にもたくさん良作があるのに、世界に認められた最初のやつがこれか?」「悪い映画じゃないけど、韓国があんなに貧乏くさい国だと思われるのは迷惑だ」
といった批判が韓国内の一部であったという。
『万引き家族』は実際に遭った事件を元に創作されたが、日本の問題をあぶりだした作品ともいえる。そういった部分に目を背け、見て見ぬふりをしてきた人々には『万引き家族』は唾棄すべき恥部ということになるのだろう。
そして今回の『怪物』も様々な論争を巻き起こしている。
シングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)と小学生の息子、湊(黒川想矢)は住んでいるマンションの一室から雑居ビルの火災を見る。ビルにはガールズバーが入っており、従業員が避難する様子が見えた。ビル火災を見ながら早織は湊から「豚の脳を移植された人は豚か、それとも人?」という妙な質問をされてしまう。
それからほどなく、湊の様子はおかしくなり、真夜中に外出して戻らなくなる。知人からの連絡で薄暗いトンネルの中で湊を保護した早織だが、走り出す車から湊は飛び降りてしまう。
病院で検査を受けた湊にそれ以外の傷がついているのを見た早織が問い詰めると、湊は担任教師の保利(永山瑛太)から暴力を振るわれ、「お前の頭には豚の脳みそが入っている」と暴言まで吐かれたと打ち明ける。
ただちに早織は小学校に訴え出るが、校長の伏木(田中裕子)をはじめ教師たちは形だけの謝罪に終始、木で鼻をくくったような態度に早織は呆れかえり、冷静ではいられなくなる。
なぜ、教師による暴力が行われたのか、という真相の解明を求めても得られず、毎日のように学校にやってくる自分がまるでモンスターペアレントのように扱われるのにも我慢ならない。
その上、保利から湊はクラスメイトの星川依里(柊木陽太)をいじめている、などと言われてしまう。ところが依里からは「湊くんは友達で仲良し」と屈託ない笑顔が返ってきて、病気という名目で学校を休んでいる湊宛ての手紙を書きはじめる依里。早織は依里の手紙の文字が左右逆の「鏡文字」になっているのを「間違ってるよ?」と指摘するが……。
教師たちが依里にいじめの件を問いただすと、湊にはいじめられてない、けれど保利先生はいつも湊を殴っているというので教師たちは混乱する。
保護者会の席上で保利は謝罪し、学校を追われることに。そしてある嵐の朝、マンションに雨でずぶぬれになった保利がやってくる。
「麦野! ごめんな。先生間違ってたよ!」
だが家には湊の姿はなく……。
と、ここまでが第一部だ。一部では学校内の暴力、いじめの問題を早織の視点から語られる。二部では教師の保利からの視点、そして三部では湊の視点から物語が語れる。
同じ事柄でも見る者が変わることで、異なる意見になるというスタイルは芥川龍之介の『藪の中』的だ。
『藪の中』は藪の中で見つかった男の死体を巡って目撃者と当事者の証言が食い違い、真相の解明に至らない。真相が明確にされないことを称して「藪の中」という言葉を生み出した。映画『怪物』も異なる人物の視点から事態の真相に迫ろうとする。が、真相は明かされない。
『怪物』への意見でよく聞かれるのが、「結局のところ、真相は?」といったものだ。作中で起こる様々な事件や疑問にはヒントは与えられても、はっきりとした解答は示されない(『藪の中』を映画化した『羅生門』では一応「真相」らしきものはつけられてはいる)。
『藪の中』ではそれぞれの人物による「心理的事実」が語られるだけであるように、『怪物』の登場人物らも同じ事柄に対してそれぞれが「心理的事実」しか見えないために事の真相にはたどり着けない。早織がシングルマザーであることは事実だが、だからちゃんと子育てできていないといった意見が劇中で語られるが、穿った見方でしかない。
このような偏見による「心理的事実」だけが延々と積み重なるだけ。『怪物』というタイトルすらも、観客をあらぬ方向へリードしていっている。
「怪物、だーれだ?」というセリフは、登場人物の誰かが常識では測りきれない『怪物』なのでは? と示唆しているように見える。
詳しくは書かないが、湊は自分の中に起こる「ある変化」を巡って自分は怪物なのではと思い悩む。保利は湊の部屋(彼はそこにはいないのだが)に向かって「おかしくなんかないんだよ」と叫ぶ。
湊、依里が思い悩むことについては本来、周囲の家族、大人が思いやったり、答えを出してあげられたらいいのに、二人を取り巻く家族と社会はあまりに無力で、そのくせ二人のためになろうとして、余計に事態を悪化させる。
思えば是枝監督はこれまでの映画で、様々な「家族」の形を描いてきた。
父親が違う4人の子供が母親に捨てられ、電気水道ガス求められたアパートで凄惨な暮らしを強いられる『誰も知らない』(2004)の子供たちは全員父親が違うのだが、それでも強く結ばれ、悲惨な生活を乗り切ろうとする。
亡くなった兄の命日に帰省した家族たちの一日を描く『歩いても歩いても』(2008)。次男の良多(阿部寛)は町医者だった父親(原田芳雄)と折り合いが悪く、休職中であることを隠している。
兄はある日川で溺れた少年を助けて自分は死んでしまい、そのことで家族に深い溝を残す。兄の命日には命を助けられた少年が毎年のように焼香を上げにやってくるが、良多はもういいじゃないか、相手も居づらそうだし、というが母親のとし子(樹木希林)は他人を犠牲にして命たすけられといて、年に一度ぐらい嫌な気持ちになるのがなんなんのさ……とつぶやく。嫌事の多い父親に比べて親しみを感じていた母親のぞっとする一面を見せられて、言葉を失う良多。結局両親とは打ち解けられないままに終わっていく。
赤ちゃん取り違え事件をテーマにし、福山雅治が初めて父親役を演じた『そして父になる』(2013)は建築家父親、野々宮良多(福山)と妻みどり(尾野真千子)の6歳になる一人息子・慶多が出生時に取り違えられていた……という話。
本当の息子は、小さな電気屋を営む斉木家の子・琉晴として育てられていた。高級マンションで暮らすエリート生活の良多には、まともな暮らしに見えない。強引に子供を二人とも引き取ろうとする良多に斉木家も、妻のみどりも反発する。
取り違えの事実を知らされた時、良多は「やっぱりそうだったのか」と口に出してしまう。慶多が習い事をさせても満足する結果を出せず、争いごとに向かない性格をしているのが不満だった良多は「自分の息子じゃないから」という思いを口走っていた。
両家の間で本当の子供を取り換えることになったが、血のつながった本当の子供の琉晴は良多に懐かず、逆に斉木家に引き取られた慶多は兄弟たちともすぐに打ち解け、まるで初めから家族だったように暮らしていた。
血の繋がっていることが家族なのか、血のつながりがなくても家族になれるのではないか? という問いに、やはり映画は答えを出さずに幕を下ろす。
是枝作品は映画を通して問題に安易な答えを出そうとせず、正義か悪かの断定もしない。ドキュメンタリーの現場から来た是枝監督は、陰惨な事件の報道が犯罪者を必要以上にバッシングし、メディアが一方的に断罪する空気に警鐘を鳴らす。
「その犯罪・事件を報じることで“負の共有財”にしていく。だからこそ報じるのであり、犯罪者に法的な責任以上に社会的な制裁を加えるために報じるのではない」
前科者が犯した殺人事件を担当することになった弁護士・重盛(またしても福山雅治)は依頼人・三隈(役所広司)の二転三転する供述に悩まされる。やがて重盛は被害者が自分の娘を性的虐待しており、救うために殺人を実行したのでは、という結論にたどり着くが、裁判になると三隈は証言を翻し、自分は殺してないと言い始める。
誰も信じてくれない自分をあなたは信じてくれるのかと、迫られた重盛は困惑する……という法廷サスペンス『三度目の殺人』(2017)では、容疑者である三隈、被害者の娘・咲江(広瀬すず)、重盛、三者三様の家族の在り方が問われる。
三者の家族はまともに機能しておらず、悲惨な人生を歩み、追い詰められ前科者になったため、離れて暮らす娘にも恨まれている三隈は「生まれてきたのが間違いだった。自分は生きているだけで周囲を不幸にする」と吐き捨てる。
咲江が父親に虐待されていることを、母親(斉藤由貴)は知っているのに見て見ぬふりをする。勤め先の工場の食品偽装をごまかすように、見たくないものにふたをする。それで誰かが苦しもうと知ったことではないと言わんばかりに。
三隈を弁護する重盛も仕事にかまけて妻とは離婚同然の状態。娘は愛情に飢えてわざと万引きをするといった不良行為を繰り返す。見たくないものにふたをしているのは自分も同じだ。三隈は見て見ぬふりをせず、罪を犯してまで咲江を救おうとしたのではないかと推測する。だが、真相はやはり「藪の中」に囚われる。
是枝裕和は旧来の日本人的な家族の枠組みを破壊し、家族の在り方を問い直す作品を撮り続けてきた。
かつての日本映画は家族の崩壊というテーマで映画を作られても、父親なり母親なりの愛情とやらで強引に家族は団結し、「やっぱり家族っていいものだね」といった安易なオチで締めくくられてきたことが多い。
是枝作品は崩壊した家族が再生しないまま終わったり、問題は事態は解決せずにエンドロールを迎えたりする。安易に善悪の決着がなされるのはリアルじゃないということだろう。観客は映画が終わった後も考え続けることになる。
『怪物』についても子供たちを追い込む大人たち、普通の人々こそが「怪物」なのだ! といった「いかにも」な意見を数多く見たが、そういう安易な解釈、結末こそ是枝裕和が遠ざけたいものではないか。
『藪の中』が発表されてから100年経った今でも真相を巡って論争が起きているように。是枝裕和作品はエンドロールの後も映画は続くのだ。
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