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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 『どうする家康』の瀬名は何を企む?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』の瀬名は政治に深く関わる? 築山殿の“クーデター”はどう描かれるか

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』の瀬名は政治に深く関わる? 築山殿の“クーデター”はどう描かれるかの画像1
瀬名(有村架純)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第23回「瀬名、覚醒」は、ドラマの家康一家の絆がもはや失われてしまっていることが露呈した回だったと思います。このドラマでは一貫して「悪女ではない」とされてきた瀬名(有村架純さん)ですが、息子・信康(細田佳央太さん)を守るため、もしくは、夫・家康(松本潤さん)に平和の重要性を訴えるため、大きく変貌していく予感がします。

 NHK総合では『どうする家康 虎の巻』というミニ番組が放送されていますが、その第5回「瀬名 悪女伝説!?」の内容を思い出しました。『どうする家康』の時代考証担当のひとりである歴史学者の平山優氏が、北条政子を例に挙げながら、日本の歴史上「悪女」と呼ばれる女性には「当時の政治に非常に大きく関わって、多くの人たちに影響を与えた」という共通点があると指摘し、そういう女性が「出しゃばり」だと捉えられ、「悪女」の汚名を着せられることになったのではと説明していました。さらに番組では、政子などと同様に「悪女」築山殿についても「徳川家の政治に大きく関わっていたと考えられています」と説明していたのです。

 また、「(築山殿=瀬名には)目標にしたと考えられる女性がいます。今川義元の母、寿桂尼です。駿河の今川館の近くに自分の屋敷を構え、今川家の繁栄を支えました。瀬名が築山に住んだのも、寿桂尼にならったのかもしれません」というナレーションもありました。築山殿が「女戦国大名」とも呼ばれる寿桂尼に憧れていたことを具体的に示す史料は残念ながら残されていませんが、戦国期の今川家の黄金時代を作り上げたのが、義元とその母・寿桂尼であったことは間違いありません。

 寿桂尼(本名不詳)は、京都の公家・中御門家から駿河の今川氏親に嫁いだ女性で、氏親が早逝した際には、後を継いだ当時14歳の長男・氏輝の代わりに約2年間、今川家の実質的なトップを務めました。しかし、氏輝が名実ともにトップとなって以降も彼女の政治参加は続き、自分が産んだ氏輝とその弟が相次いで(暗殺と思しき)不審死を遂げると、すでに僧籍に入っていた義元(寿桂尼にとっては3番目の息子)を呼び戻してトップに立てました。この時、氏親の側室が産んだ男子で、義元同様に僧だった玄広恵探との家督争いが起こりますが、寿桂尼は玄広恵探サイドに直談判し、説得を試みるなど、凄まじい行動力を発揮しています。

 玄広恵探は、義元より自分が年長であることを理由に、還俗して今川本家を継ごうとしていたのですが、今川家の軍師的存在である太原雪斎と協働した寿桂尼が有力家臣たちを説得し、味方に引き入れるなどの素早い対応を見せたことで、花倉(はなくら)の乱と呼ばれるこのお家騒動の早期収束を可能にしました。

 寿桂尼は一度引退しますが、義元の急死後には現役復帰し、孫の氏真の時代も活躍していました。すなわち『どうする家康』の時間軸でも政治に密接に関わっており、一説には武田信玄も彼女を警戒していたともいわれますが、ドラマにはなぜか登場していません。しかし、対立陣営ともうまく交渉し、味方に引き入れてしまうような寿桂尼の政治スキルに築山殿=瀬名姫が憧れ、模倣しようとしてもおかしくはないでしょう。

 いずれにせよ、『どうする家康』の築山殿=瀬名は政治にどんどん関わっていくことになりそうです。次回・第24回のあらすじには、〈瀬名と信康が各地に密書を送り、武田方をはじめ多くの者が築山を訪ねている〉という箇所があります。

 これについて史料的な裏付けとなるのは、江戸時代初期に成立した『石川正西見聞集』の次の一節です。

 「つき山殿(=築山殿)悪戯な事たくみ、信玄と御内通有りて家康公滅ぼし候え、其の後は勝頼の御連中になし申し、若殿(=松平信康)をば甲州の主になし御申し有るべしと信玄御申し、その取次は御中間弥太郎(=大岡弥四郎)とやらん申す者なり、右の様子(家康に)漏れ聞こえ、信長公へ御内談の上、若殿様をば岡崎を出し御申し(以下略)」

 この部分に言葉を補いつつ、まずは前半部分を意訳してみましょう。

 「築山殿は、武田家との戦を続ける夫・家康を滅ぼしたいと願い、晩年の武田信玄、そして彼の死後には勝頼と内通していた。築山殿は、『わが夫・家康を武田家の力で滅ぼしていただいた暁には、わが身を勝頼殿の妻にし、家康との間に生まれた信康に武田家の跡目を継がせてほしい』などと言っていた」

 このような築山殿の願いは絶対に叶えられなかったでしょう。勝頼には男子が何人もおり、彼らを差し置いて松平信康が「甲州の主」になることは無理だったと思われます。『石川正西見聞集』は家康に好意的な書物ですから、女だてらに政治介入した築山殿をバカにするため、理屈の通らないことを本気で主張していたと、故意にこのような書き方になっているのかもしれません。実際の築山殿の希望は、もっと現実を見据えたもので、「信康には三河や岡崎といった現・徳川領の支配を任せ、勝頼が彼の後ろ盾になってほしい」あたりではなかったかと筆者には推測されます。

 『石川正西見聞集』の先ほどの一節で注目されるのは、「築山殿と武田の間を取り次いだのが大岡弥四郎という人物で、こうした状況が家康にも知れ渡り、家康は信長に相談したうえで信康を岡崎城から追放した」という後半部分です。ドラマでも第20回の「岡崎クーデター」に登場した大岡弥四郎が、この史料では築山殿と武田信玄を仲介する存在として彼女の計画の後押しをしていた可能性が言及されているわけです。同書の記述を信頼すると、天正2年(1574年)の大岡弥四郎事件の時点で、築山殿は徳川家の人間でありながら、親・武田、反・家康派の中心にいたと推測できます。ただ同書は、大岡弥四郎事件の直後に信康と築山殿の追放などの事件があったとしており、これらはいうまでもなく他の史料から読み取れる史実とは異なります。

 この『石川正西見聞集』の内容と史実を整合させていくと、次のようなことがあったのではと考えられます。「武田家との内通が露見した際、大岡弥四郎は築山殿をかばい、全てを自分の所業として罪を被って死んでいったので、築山殿の命は首の皮一枚でつながった。しかし、それでも彼女の暗躍はとどまるところがなかった。大岡弥四郎が刑死した後の築山殿の政治活動を支えたのは、松平信康だった。家康は築山殿と信康の監視をいっそう強め、五徳姫という協力者を得て、ついに築山殿と信康らの謀反の証拠を掴み、両者を城から追い出して監禁し、その後改めて彼らの命を奪うことにした」といった経緯ですね。(1/2 P2はこちら

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