キンタロー。圧巻の「顔芸」と「お笑い批評」批評っぽいもの
#キンタロー。 #テレビ日記 #飲用てれび
テレビウォッチャーの飲用てれびさんが、先週(5月28~6月3日)に見たテレビの気になる発言をピックアップします。
ランジャタイ・国崎「今おそらくキンタロー。さんが一番面白い」
批評が嫌われている、と聞くことがある。音楽やお笑い、ドラマや映画といったエンタメを対象にした批評について、特に言われているように思う。
作品を発信する側と、それを受け取る側がいる。それだけで十分ではないか。作品を受け取った側が感じること、それがすべてではないか。その間に挟まるものはすべてノイズではないか。特に、関係のない第三者による批評なんて――。批評が嫌われている理由は、そんなところだろうか。
いや、そういう傾向が世間にどのぐらいあるのか、実のところ私はよく知らない。批評が嫌い、と言っている人よりも、批評が嫌われているらしい、と言っている人のほうをよく見る気もする。ネット上の“炎上”の多くは、燃やす人の数や熱量よりも、“炎上”しているらしいと吹聴する人がたくさんいることで広がっていく、とも聞く。似たような状況が、“批評嫌い”に関する言説にも少なからずあるのかもしれない。根拠のない推測だが。
と、いろいろ考えてしまうわけだけれど、世相レベルで批評が嫌われているかどうかは別にして、批評を忌避する声をSNSなどで個別に見聞きするのは確かだ。お笑いに論はいらない、ただただ笑えるものが至高、客が笑えたという事実が正解、そこに第三者の言葉は必要ない。そんな声である。
ただ、そういう主張もまた、お笑いについてのひとつの批評だろう。お笑いに論はいらないという論陣を張っているわけだから。たとえ無自覚であったとしても、論理が十分に構築されていないとしても、そこでは「お笑いとはこういうものだ」という主張が展開されている。
誰もが作品への意見を気軽に発信できる時代だ、と言われて久しい。誰もが批評家になりうる。だとしたら、より面白い論を発信したほうがいいだろう、と私は思う。お笑いに論は必要ない、みたいな論は、あまり面白いとは思えない。
ということで、ここではあえて、ただただ笑えるものについて論じてみたい。
「今おそらくキンタロー。さんが一番面白い。あのころの松ちゃんです」
5月23日の『ランジャタイのがんばれ地上波!』(テレビ朝日系)で、国崎和也(ランジャタイ)はそう言った。
キンタロー。「普段、社交ダンスではやっちゃダメだと言われてることを全部やりました」
5月23日と30日の2週にわたり、『ランジャタイのがんばれ地上波!』では「顔-1グランプリ」という企画が放送されていた。タイトルどおり、顔芸の面白い人を決める企画である。出場者は国崎に加え、アタック西本(ジェラードン)、ギフト☆矢野、そしてキンタロー。だ。
キンタロー。はオープニンからフルスイングだった。顔芸の代表的な芸人としてコロッケの名前が共演者から出ると、眉毛を吊り上げて顎を少し出した表情をつくる。おそらく、コロッケが岩崎宏美のマネをするときの顔だと思うが、彼女は当然、指などを使わずに表情筋だけでその顔を再現する。
さらに、キンタロー。はその表情で「コロッケだよ」と自己紹介する。岩崎宏美をマネするコロッケをマネして「コロッケだよ」と言う。どこにリアリティの水準があるのか。さらに彼女はその顔で「負けへんで! 絶対負けへんで!」と意気込む。なぜ関西弁なのか。そんな彼女の言動はひと言でいえば“むちゃくちゃ”なわけだけれど、その”むちゃくちゃ”さは圧倒的な顔面の上で統合され、大きな笑いを生む。
先ほど、コロッケが岩崎宏美のマネをするときの顔を「再現」した、と書いた。が、その後の“むちゃくちゃ”さを見るに、それは再現ではない。デフォルメだ。そもそものコロッケによる岩崎宏美がデフォルメだから、デフォルメのデフォルメ。その意味で言えば、デフォルメのものまねを得意とするコロッケを、彼の芸風の根幹のレベルで正しくマネているとも言える。
このオープニングだけで共演者からは「誰も勝てないんじゃないか」「もう勝ってるでしょ」との声が漏れる。「顔芸-1グランプリ」にキンタロー。が出場するのは、端から出来レースなわけである。もちろん、その圧倒的王者感を楽しむのがこの企画の醍醐味のひとつだ。
番組では、参加者がにらめっこなどのバトルで「顔-1チャンピオン」を争った。が、いずれの競技でもキンタロー。は圧巻の顔芸を見せる。見る者を必ず笑わせるキンタロー。の顔は、共演者たちに「メデューサ」と言わしめるほどだった。さらに、顔だけダンス対決では、顔芸だけでなく社交ダンスで鍛えたキレキレの動きを見せる。彼女は言う。
「普段、社交ダンスではやっちゃダメだと言われてることを全部やりました」
人間はこういう顔を表情筋だけでできるのか。キンタロー。の顔芸を見ていると、そんな驚きさえ覚える。そして、その驚きが意外さを生み、笑いにつながる。見ている側が想定している顔芸の水準を乗り越えてくる。面白い顔芸を見る、という設定でそれなりに上がっているはずのハードルを、表情筋だけで飛び越えてくる。
キンタロー。の顔芸をたとえるなら、顔に落書きをしたような顔と言えるだろうか。あるいは、顔面プロジェクションマッピング。彼女はその顔にさまざまな表情を変幻自在に投影する。
そんなキンタロー。は、印象に残るワードは特に残さない。ただ、面白い顔をするだけ。そしてその顔が画面と網膜に強烈に焼きつく。そんな芸人は現在ほかにあまり類例がないだろう。そして、そんな彼女のさまざまな表情を映し出す顔は、トーク中心、ワード中心の現代のテレビバラエティの傾向も、投影しているのかもしれない――みたいに言うと、ちょっと批評っぽいかもしれない。
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