『どうする家康』長篠の救出劇へ…家康の長女・亀姫と奥平信昌の結婚話はどう描かれる?
#大河ドラマ #白洲迅 #どうする家康 #大河ドラマ勝手に放送講義
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『どうする家康』第20回は、大岡弥四郎(毎熊克哉さん)の厭戦の思いを叫ぶ姿が印象的でした。相次ぐ戦に疲弊し、「皆もうこりごりなんじゃ。終わりにしたいんじゃ。だが終わらん。信長にくっついている限り、戦いは永遠に終わらん無間地獄じゃ!」と、やりきれない本音を吐露する弥四郎でしたが、彼の言葉には確かに一理あります。この当時、戦があるたびに、そしてその勝敗に関係なく、徳川家康の足元が大きく揺らいでいたことがうかがえるからです。ドラマもしばらくはつらい展開が続いていきそうです。
弥四郎たち一味は「岡崎を救うため」に、弱き主君・家康(松本潤さん)から、強き主君・武田勝頼(眞栄田郷敦さん)に鞍替えすべく、謀反の大罪を犯すこともいとわずに立ち上がったのでしょう。しかし、彼らに対する五徳姫(久保史緒里さん)の反応には唖然とさせられてしまいました。五徳は事件の背景などまったく顧みず、弥四郎に父・信長(岡田准一さん)を侮辱されたと思ったのか、「このこと(=弥七郎事件)は我が父に子細漏れなくお伝えいたします。この者たちをしかと処罰なさいませ。この上なくむごいやり方でなあ」と静かな怒りを見せ、牢内の囚人たちだけでなく、松平信康(細田佳央太さん)と家臣たちにも微妙な空気が流れてしまっていました。
史実では、五徳から築山殿と信康が武田方に密通しているという告発文を送られた信長は激怒し、身内の監督責任問題を問われた家康は彼らを粛清せざるをえなくなる……という大事件が天正7年(1579年)に起きるのですが、本連載ではこの事件と人物関係にはさまざまな解釈が成り立つというお話を何度かしてきました。
通説において姑息なチクリ役として描かれる五徳姫ですが、『どうする家康』においてもそのようなキャラクターとなる可能性が強まってきたようですね。ドラマの五徳は、武田との戦で負傷した徳川の兵たちの治療にもあたろうとせず、「このような汚い男どもに触れるなんてできません」と言ってのけたことで、救護班の中心として働いていた瀬名(有村架純さん)から「そなたも三河のおなごであろう!」と叱責されるシーンもありましたが、五徳は「私は織田信長の娘じゃ! 無礼者!」とまさかの口答え。なかなかに将来が案じられる問題児ぶりを見せつけていました。ドラマ公式サイトでは「信長やその妹・市に似て気品にあふれ、気が強いが、心根は優しい」と紹介されている五徳ですが、このまま完全な悪役となってしまうのでしょうか。演じる久保史緒里さんが上品な方であればあるほど、五徳も氷のように冷たく、取り付く島もないように見えてしまうのかもしれませんが……。
さて、次回・第21回「長篠を救え!」では、ついに徳川・織田の連合軍と、宿敵といえる武田軍が激突した「長篠の戦い」に至るまでが描かれる模様です。
次回のあらすじには興味深い一文がありました。
〈武田に包囲された奥三河の長篠城。城主・奥平信昌(白洲迅)はピンチを伝えるため、鳥居強右衛門(岡崎体育)を岡崎へ送り出す。強右衛門の手紙を受け取った家康(松本潤)は、織田に援護を求めると、信長(岡田准一)は二万を超える軍勢を率いて岡崎へやって来る。そして天下一統に突き進む信長は、参戦の条件として家康に驚くべき条件を提示する〉
この「驚くべき条件」とは一体何を指すのか、そして次回のキーパーソンとなってくるであろう「奥三河の長篠城」城主・奥平信昌とはどんな人物だったのかについて、今回はお話ししていきましょう。
「驚くべき条件」が何かについては、筆者の周囲では、家康が長女・亀姫を奥平信昌と結婚させることではないか、という声がありました。史実では、信長の強い意向によって亀姫は信昌と婚約したとされ、長篠の戦いの翌年、信昌との婚儀が執り行われました。
ドラマでは、前回描かれた天正3年(1575年)の大岡弥四郎事件の時点で、亀姫は数え歳で16歳です。当時の年齢感覚では亀姫は結婚適齢期の女性ですが、ドラマではなぜか、まだ幼い少女のように當真あみさんが演じておられるので、彼女の結婚は確かに「驚くべき条件」といえるかもしれません。しかし、すでに天正元年(1573年)ごろから、史実の家康は奥平信昌を味方に付けようとさまざまな交渉をしていたことが知られています。
奥平家は、かつては今川家の家臣でしたが、今川の没落後は武田家に乗り換えています。しかしすぐに武田家の支配から離脱し、徳川の家臣になったかと思うと、やはり徳川を見限って武田に戻り……といった不穏な動きを続けていました。三方ヶ原の戦いでは、奥平信昌は武田方として参戦しており、徳川軍と戦っています。このように度重なる裏切りをすると、本来は嫌われるどころか処刑も覚悟すべきところなのですが、それでも許されてきたのは、歴代の奥平家当主が実力派の武将であり、敵に回したくない存在だったからでしょう。
そして、三方ヶ原の戦いでは武田方に付いた奥平家ですが、信昌もまた武田勝頼が秘匿していた信玄の死にいち早く気づいていた1人で、元亀4年春(1573年)ごろには、すでに武田家からの(再)離反を考えていました。家康はそんな信昌を取り込むことが武田戦において有効だと見抜き、彼から気のない返事をされても味方に付くよう交渉を繰り返していたようですが、信長からのアドバイスを受け、長篠城と家康の長女・亀姫を与えるなどの好条件を提示した末、やっと信昌を味方に引き入れることに成功したのでした。(1/2 P2はこちら)
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