あの大ヒット曲で一世を風靡したギター漫談家の波乱万丈な人生…浅草芸人への思い
#芸人
「酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞぉ~」
この歌詞と曲、読者諸兄もどこかで一度は耳にしたことがあると思う。最初に紹介すべきは、なんといってもこの曲を大ヒットさせた「バラクーダ」の作曲・ボーカル担当だった、東京演芸協会会長のベートーベン鈴木以外にいないだろう。
昭和37年1月に設立された本協会は、初代・柳家三亀松(三味線漫談)、二代・牧野周一(漫談)、三代・アダチ龍光(奇術)、四代・前田勝之助(浪曲ものまね)、五代・桜井長一郎(声帯模写)、六代・牧伸二(ウクレレ漫談)、七代・はたのぼる(尺八漫談)と、さまざまな芸種の芸人が会長を務めてきた。中でも、ウクレレ漫談家としてテレビ・ラジオ等で活躍した牧伸二は読者の記憶にも新しいところだと思う。
そして現在、八代目の会長として協会を束ねているのが、シンガーソングライターでありコミックソング漫談のベートーベン鈴木である。小中学校時代はお笑い好きな少年で、先生や同級生の前で落語や漫才などを演じてウケを取っていたが、高校生になると音楽に目覚め、独学でギターを学び、日本大学入学後には「オールバージニアン」というアマチュアロックバンドを結成し、リードギターを担当する。
すっかり音楽に魅了され、いっそのこと音楽で身を立てようと決意した鈴木は、在学中にプロの世界に飛び込み、19歳で「ナッツダンディーズ」というロックバンドでプロデビューを果たす。
その後「那須三郎とダスターポット」というコミックバンドに入団、日劇ミュージックホールに出演する等の活動後、「岡本八とダスターポット」に改名したグループでもギター奏者としてジャズ喫茶や米軍キャンプ等で演奏し、人気を博すも、1972年にバンドは解散する。
1974年、都内のナイトクラブでギターの弾き語りをしていた鈴木と元同僚の岡本圭司がコンビを組み、お笑い楽団「バラクーダ」を結成、今思えば、これが人生の転機になったといえよう。
バラクーダの二人は浅草の舞台を中心にテレビ・ラジオの寄席番組への出演等の活動を始める。1979年、作詞を岡本、作曲を鈴木が担当した「日本全国酒飲み音頭」が72万枚を売り上げる大ヒットとなり、続いて「チャカ・ポコ・チャ」(40万枚)、「演歌・血液ガッタガタ」(50万枚)とヒット曲を連発し、一躍歌謡界の寵児となる。
1988年にベートーベン鈴木は「バラクーダ」からの独立を宣言、その後は作詞作曲を中心に、コミックソング漫談家として浅草東洋館をはじめ多種多様な仕事先で精力的に活動している。
先日、当コラム開始にあたって鈴木会長と電話で話をした。そのとき、会長は「内容に愛が感じられるなら、悪口っぽく書いたってかまわないよ」と言い、さらにこう言葉を続けた。
「浅草の芸人は、言ってみれば中途半端なんだよな。昔、松竹演芸場(※浅草六区にあった演芸場、1983年に閉鎖・取り壊しとなり、現在は浅草ROXビル本館が建っている)があった頃は、欽ちゃんだってビートたけしだって、芸人はみんな売れて浅草を出ていくことを目標にがんばったもんだ。そして、売れた芸人は浅草の芸人から全国に知られる芸人になっていったんだ。浅草で芸人やってることで満足してちゃ駄目なんだよ。俺も一度は歌がヒットして世に出たけど、今だってまた世に出ることをあきらめたわけじゃない」
東京演芸協会の会長として協会の運営と若手芸人の育成に励みながら、ベートーベン鈴木は今もなお、自分自信の芸の向上と次のヒット曲への飽くなき挑戦を続けているのである。
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