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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 大岡弥四郎事件に瀬名姫は関与したのか?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』大岡弥四郎の“クーデター”の影にちらつく武田勢と瀬名姫

大岡弥四郎事件の黒幕は、武田方と内通していた瀬名?

『どうする家康』大岡弥四郎の“クーデター”の影にちらつく武田勢と瀬名姫の画像2
瀬名(有村架純)と大岡弥四郎(毎熊克哉)| ドラマ公式サイトより

 ここで改めて確認しておきたいのは、天正3年(1575年)の大岡弥四郎事件当時、信康はまだ数え歳17歳の青年だったということです。彼は、同年5月の長篠の戦いで初陣を飾ったばかりでした。この時の信康が武田軍に対して勇猛果敢な戦いぶりを見せたことは諸書が認めています。それゆえ、少なくともこの初陣の時点では、信康は、弥四郎たちのようには武田派ではなかったことがわかります。それはつまり、弥四郎たち重臣たちが、信康を武田派に引き入れようと具体的に試みてはいなかったことも意味しているでしょう。信康は重臣の弥四郎が処刑されたことについて、「父・家康への裏切りゆえに、彼は殺されたのだ」と理解し、素直に納得できたと思われます。

 先ほどの「信康を三河の国主に据える」という武田勝頼の提案に築山殿が乗り気だったという『岡崎東泉記』の記述と合わせて考えると、岡崎城における武田方の中心人物は、築山殿であったと見ることができます。築山殿が武田方の間者である滅敬(めっけい)という唐人医師と不義密通の関係だったという説が『岡崎東泉記』や『松平記』などには見られるのですが、『石川正西見聞集』にはさらに踏み込んで、築山殿が、夫・家康を殺してくれたら勝頼に身を捧げると希望していたとの面妖な記述まで出てきます。

 となれば、武田方の影がちらつく大岡弥四郎事件において、築山殿の積極的な関与が疑われるのも必然でしょう。信康のあずかり知らぬところで、築山殿は勝頼と内通し、信康を盛り立てるために弥四郎たちを動かした“黒幕”だった……との想像も働きます。実際、山岡荘八による『徳川家康』などの昭和の歴史小説の中では、築山殿は大岡弥四郎と男女の関係にあり、弥四郎が処刑された後も彼の遺志を実現しようと武田に味方し、家康を討ち取らんとする執念を燃やしていたという設定も見られますね。

 築山殿が本当に大岡弥四郎事件に関与していたのか、武田と内通していたのか、その真偽は不明です。しかし、この事件がよくある家臣の謀反事件として片づけられないのは、事件の翌年の天正4年(1576年)ごろから、信康が暴力的かつ残虐な人物になっていったという記述が『当代記』などの史料に見られることです。この信康の変化と大岡弥四郎事件に何らかの関係があったのではないかとの疑いが生まれるわけです。

 もっとも、信康が完全に“不良化”したとは考えにくいところもあります。たとえば、於万の方が産んだ異母弟・於義丸に見せた愛情深さです。於義丸(後の結城秀康)が生まれたのは天正2年(1574年)2月8日でした。その後のおよそ3年もの間、家康が於義丸とまともに対面もしなかったことは前回も書きましたが、信康は家康に自分の子と顔を合わせるよう熱心に説得したという逸話があるのです。この逸話が事実ならば、家康と於義丸の対面が叶ったのは天正5年(1577年)ごろということになり、その前年・天正4年ごろから、気に入らない農民を矢で射殺してしまうような残虐さが見られたとする『当代記』などの「問題児」信康の像とは相反する印象を抱かせるのです。

 しかし、こう考えることもできるのではないでしょうか。史実の家康と築山殿は、長年別居するほど、その関係は冷え込んでいたとみられます。夫に捨てられた正室である築山殿は、家中における自身の立場を改善するべく、家康ではなく勝頼を頼り、大岡弥四郎に謀反を計画させました。愛する信康を、家康などに任せていられないという気持ちもあったかもしれません。その計画は失敗に終わり、事件後は夫婦仲がますます悪くなったことで、当時10代後半だった信康は、母・築山殿への同情を深めるとともに、父・家康に対して不信感を抱くようになっていったのではないでしょうか。もしかしたら、信康は母・築山殿と父・家康の間に立って、なんとか両親の復縁を取り持とうとしていたかもしれません。しかしその努力も実らず、むしろそれが家康からの信康の評価を悪化させていき、信康も家康に対して反抗的となっていき、『当代記』などで暴力的な問題児として描写されるに至ったのでは……などと考えられそうです。

 こうした父親との確執によって信康は築山殿と一心同体といえる状態へとなっていき、築山殿による武田方との密通に信康自身も加担させられることになった。あるいは、家康に不信感を抱くうちに信康が築山殿以上に熱心な武田派となってしまい、家康はそういう息子をもはや嫡男として生かしておくことができなくなった……というストーリーも考えられるかもしれません。

 信康の正室・五徳姫が彼女の父・織田信長に、武田と内通する築山殿や信康を糾弾する書状を送付し、それが彼らの死の引き金となったと語られることも多いのですが、彼らの死には、あまりに多くの謎がつきまとっています。この五徳の告発の件については、実は黒幕は家康で、武田方についた築山殿と信康を“処分”するために、信康と離婚したい五徳姫に協力させたのでは……という筆者の推理も以前、お話ししました。

 ドラマでも瀬名(築山殿)と五徳姫の間の不和を匂わせる部分は描かれ始めていますが、『どうする家康』の築山殿=瀬名は「悪女ではない」と公式に明言されていることを考えると、瀬名が武田と密通するような展開はありえなさそうで、むしろ武田のスパイは、五徳姫に取り入って夫・信康と義母・瀬名を糾弾するよう持ちかけることになるのでしょうか。家康が妻子を死に追いやるという悲劇を、ドラマではどのような理由付けで成立させるのか、興味が尽きません。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/05/28 11:00
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