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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 大岡弥四郎事件に瀬名姫は関与したのか?
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』大岡弥四郎の“クーデター”の影にちらつく武田勢と瀬名姫

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『どうする家康』大岡弥四郎の“クーデター”の影にちらつく武田勢と瀬名姫の画像1
お万(松井玲奈)| ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』第19回「お手付きしてどうする!」は、タイトルどおり、家康(松本潤さん)と侍女のお万(松井玲奈さん)の情事の話がメインでしたが、側室との甘美なやり取りはほとんど描かれず、その後の修羅場にフォーカスした内容でした。

 もともと仕えていた瀬名(有村架純さん)からも「おっとりしたつつましい娘」と思われていたお万ですが、それはすべて演技だったようです。ドラマでははっきりとは描かれませんでしたが、お万は、瀬名の信頼を得ることで家康のもとに遣わされることを期待し、まず瀬名に近づいたのでしょう。そして色仕掛けで家康に迫り、その子を宿すことで、養育費という名目の高額の手切れ金を請求し、戦で荒れ果てた実家の知立神社を立て直そうという計画だったようです。

 瀬名が噂を聞きつけて浜松城にやってきたと知ると、お万は同僚の侍女たちに木に縛ってほしいと依頼し、瀬名には「お気の済むまで折檻してくださいませ! 殺されても文句は言いませぬ!」「殿のご落胤とあらば世に恥ずかしくないしつけを施さねばなりませぬ。我が家は……社でございますが戦で焼けてしまい……。父は死に、母は動けず……とてもとても、そのような……」などと訴えました。お万の芝居じみた振る舞いから、瀬名も彼女の目論見に気づかざるをえなかったようです。しかし瀬名は本当に懐の深い女性のようで、いくら乱世とはいえ、人には誇れないと思われたお万の生き方を「私は嫌いではないぞ」「恥ずかしいことはない」と慰めましたが、勝ち気なお万が「恥じてはおりませぬ」と即答したのには驚かされました。

 お万は、あくまで自分は戦で弱った家康を慰めて差し上げただけだと強弁し、筆者にはそれはまるで夫を放置していた瀬名を責めるような口ぶりだったようにも聞こえましたが、史実でもしそんな発言をしていたとしたら、裸で木に縛り付けられ、放置されたといった逸話にあるレベルの折檻では済まなかったでしょう。もっとも、女の武器を駆使することで持てる者(=家康)から奪い取るしか選択肢がなかったお万からすれば、実家が没落しても夫である家康に手厚く守られている瀬名に対して「あなたに何もわかるものか」などと言ってやりたくなる気持ちも、多少は理解できますが……。

 『以貴小伝』などの史料には、瀬名姫こと築山殿が於万(お万)の懐妊を知って激怒し、木に縛り付けて折檻したという逸話があることは有名ですが、内容的にはかなり異なる形ではあったものの、この逸話が『どうする家康』に登場したのには驚かされましたね。このドラマにおける「悪女」はやはり(放送前から「悪女ではない」と説明されてきた)瀬名ではなく、金目当てに周囲を見事騙していたお万という描かれ方だったのも興味深かったです。

 お万の騒動が決着を見た後、家康から改めて同居を懇願された瀬名ですが、やはり女性問題を起こした夫と即座の同居再開は気が乗らなかったのか、「いずれは2人で暮らしましょう」と答えていましたが、その後の悲しい展開を知っていると、なんとも切なく映るシーンでした。

 また、「おなごの戦い方」を力説するお万から「ずっと思っておりました。男どもに戦のない世など作れるはずがないと。政もおなごがやればよいのです。そうすれば、男どもにはできぬことがきっとできるはず。お方様のようなお方なら、きっと……」と言われた時に見えた複雑な表情からは、その言葉に感化されて瀬名もまた「おなごの戦い方」について意識し始め、政治に介入してしまうのではないか、と思われるところがありました。これが、多くの史書に見られる、瀬名=築山殿が武田方と内通をしていたという逸話につながっていくのかもしれません。

 『岡崎東泉記』という史書には、歩き巫女などの武田の諜報部隊が岡崎城内に出入りしており、彼らの言葉にすっかり洗脳されてしまった築山殿が、武田勝頼からの提案――彼女の愛息・信康を三河の国主の座に据えるための協力を勝頼がするという言葉に乗り気だった、との記述が見られます。

 ドラマの次回・第20回は「岡崎クーデター」と題され、予告映像では、勝頼(眞栄田郷敦さん)が「あの城(=岡崎城)はいずれ、必ず内側から崩れる」と予言する場面があったり、歩き巫女の千代(古川琴音さん)が暗躍しているらしき様子もありましたから、『岡崎東泉記』のエピソードがドラマでも採用されるのかもしれません。

 家康の居城・浜松城と、信康と築山殿の暮らす岡崎城には70キロほどの距離があり、その地理的距離は、心理的距離にもつながっていたと考えられます。天正2年(1574年)ごろ、侵攻してきた武田軍に対し、浜松城では対決姿勢一色だったのに対し、武田との連戦により疲弊が目立つ岡崎城では、武田方の熱心な諜報活動もあってか、「家康公は自分たちが命を投げ出してまで仕えるのに足りる主君なのか」と家康のリーダーとしての資質を問うような意見が重臣たちの間でも噴出するような状態だったともいわれます。それを象徴するのが、次回の中心となるであろう「大岡弥四郎事件」でしょう。

『どうする家康』大岡弥四郎の“クーデター”の影にちらつく武田勢と瀬名姫の画像1
大岡弥四郎(毎熊克哉)| ドラマ公式サイトより

 「大岡弥四郎事件」、あるいは大岡弥四郎という名前自体が耳慣れないという読者も多いと思われます。この事件は簡単に要約すると、家康の嫡男である松平信康に仕える家臣・大岡弥四郎が岡崎城内で謀反を計画するも、露見して処刑されたというものです。

 しかし江戸時代に書かれた史書の中で、弥四郎の情報はなぜか錯綜しており、『東照宮御実記(以下、御実紀)』や『三河物語』などでは、「大賀弥四郎」という名前で登場しているほどです。弥四郎は、徳川家の譜代の家臣として江戸以降も続いた「大岡家」の出身とする見方がありますが、おそらく『御実紀』などの書き手には、弥四郎と大岡家を結びつけたくないという意思があったのでしょう。

 弥四郎の経歴や役職、謀反から処刑までの経緯に至っては、史料の数だけ説があるという状態です。たとえば『御実紀』では、弥四郎は低い身分から算段(=経理)の才能を買われて家康・信康父子の双方に仕えるほどに成り上がったとある一方、『三河物語』では信康のもとで町奉行などの大役を兼任していたとされています。どちらの史料でも、武田勝頼との内通を理由に弥四郎は処刑されてしまうのですが、『御実紀』の弥四郎は増長ぶりが激しく、とある武士の昇進にまつわるトラブルがきっかけとなって家康が身辺調査をさせたところ、勝頼と内通している書状が発見されてしまいます。一方、『三河物語』においては、弥四郎は信康の他の重臣たちと共に武田と内通しており、武田軍を岡崎城に引き込むための具体的な計画まで立てていたものの、「裏切り者」が出たせいで捕縛され、弥四郎本人だけでなく、彼の家族も残酷な方法で処刑されたという話になっています。

 『三河物語』や『岡崎東泉記』においては、家康を見限って代わりに信康を盛り立てようとした弥四郎(たち)の計画を失敗させた「裏切り者」が出てくるわけですが、この家康から見れば「功臣」となる人物が、山田重英という武将です。家康の特別なはからいで、重英には500石もの加増があったという記録もありますから、重英の翻意によって弥四郎の計画が土壇場で失敗したのは事実なのでしょう。しかし不思議なことに『御実紀』はなぜか山田重英の功績について触れていません。

 その理由として考えられるのは、『御実紀』が徳川家の公式史であるからでしょう。一枚岩であるべき「神君」家康の家臣団が、三方ヶ原の戦いで惨敗してしまった後に内部分裂していたという事実を認めたくなかったのかもしれません。しかし、史料によって内容が微妙に異なること自体は珍しくありませんが、弥四郎の名前からその処刑の顛末に至るまで異なるのは、さすがによくあることとはいえず、これは何か重要な真実を江戸時代の歴史家たちが隠そうとした証しのようにも思われます。

 そして歴史家たちが隠そうとしたのは、内部分裂を引き起こした主君と家臣の軋轢だけでなく、家康と信康、築山殿との確執が後世において問題視されたことと関係しているのかもしれません。(1/2 P2はこちら

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