愛を求めたチェコ最後の女性死刑囚 実録犯罪映画『私、オルガ・ヘプナロヴァー』
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オルガが17歳のとき、チェコは重い布団に覆われた
オルガ・ヘプナロヴァーが事件を起こしたのは1973年7月10日。オルガは22歳だった。1968年1月、彼女が16歳のとき、言論や経済の自由化が認められた「プラハの春」が訪れる。しかし、同年8月には、自由な空気はあえなく潰されてしまった。ダニエル・デイ=ルイス主演『存在の耐えられない軽さ』(88)でも描かれた、ソ連による軍事介入が起きている。本作の中では政治的な背景は触れられていないが、オルガの心理面に影響を与えたのだろうか?
ペトル「もちろん、オルガに大きな影響を与えたはずです。プラハの春の後には正常化体制が敷かれ、非常に取り締まりの厳しい社会に変わったんです。60年代には行なわれなかった検閲が再び復活しました。当時のチェコは“重い布団に覆われよう”だったと言われています。オルガもおそらく社会の重圧を感じていたと思います」
トマーシュ「映画ではあえて政治的背景は描いていません。それはオルガ自身が自分の日記で政治的な話題にほとんど触れていなかったからです。でも、現実にはソ連軍を中心にしたワルシャワ条約機構軍によってチェコは武力弾圧され、チェコの人たちもお互いを傷つけ合うような社会状況になってしまいました。そんな中、オルガは多くの哲学書を読み、実存主義に走るようになったんです」
実家を出たオルガは、男友達のミラや、短期間だったが複数の同性の恋人たちと交流する。しかし、友人も恋人もオルガを深い闇から救うことはできなかった。精神科医も同じだった。次第にオルガは社会全体を敵視し、行動に移すことになる。
ペトル「当時のチェコは精神科、心療内科、神経内科といった医学分野はあまり進んでおらず、オルガを救うことができなかった。もっと医学が進んでいれば、彼女を助けることができたかもしれません」
トマーシュ「オルガは今の言葉でいうLGBTでした。医者・家族・友達が、彼女に対してもっと真摯に、彼女の置かれていた状況を理解することに努めていれば、彼女が凶行に走るのを2~3年遅らせることはできたかもしれない。無差別大量殺人を起こす犯罪者の多くは若者です。オルガもあと数年経っていれば、大人の女性となり、事件を起こさなかった可能性もあったでしょう」
もしも、彼女が小説家になっていれば……
トマーシュ・ヴァインレプ監督とペトル・カズダ監督は、オルガ・ヘプナロヴァーを主人公にした物語を映画化したが、彼女が起こした犯罪を決して肯定的には捉えてはいない。オルガに対して一定の距離感を保ち、犯行に至るまでを実にクールに追っている。事件を起こし、死刑になることを望んでいたオルガだが、死刑執行が現実のものとして迫ってくると、それまでのポーカーフェイスから人間的な表情を見せるようになる。両監督は、多くの資料を読み、オルガの内面についての理解に努めたそうだ。
ペトル「オルガは大変な読書家で、頭もよかった。うまく人間関係をつくることができず、職を転々としたけれど、最終的な職業だったドライバーは当時のチェコでは女性がなることは珍しかった。先進性に富んだ女性でもあったんです。それでも、彼女は心の中にいた悪魔的なものから逃れることができなかった」
トマーシュ「もしも、オルガが自分自身を主人公にした小説を執筆していたら、とても面白い内容になっていたんじゃないかな。偽名を使ってね。そして、その小説がベストセラーになり、彼女の存在が世間に認められていれば、きっと違う人生が開けていたはず。もちろん、当時のチェコでは小説を発表することは簡単なことではなかったわけだけど、オルガが何か表現する手段を持っていれば……とは思うよ」
ペトル「僕らの場合は、映画を撮っていることで犯罪に走らずに済んでいるわけだしね(笑)」
冗談っぽく語る2人だったが、自分の内面を表現する手段を持つことが精神面を落ち着かせる効果があるのは確かだろう。事件から40年以上が経過しているが、トマーシュ&ペトルの両監督は、映画を通してオルガを心の闇から解き放ちたかったのかもしれない。
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