『アダマン号に乗って』心を病んだ人が感じる「居心地の良さ」とは?
#稲田豊史 #さよならシネマ
精神疾患なのに生き生きしている
パリのセーヌ川に浮かぶ、船の形をしたデイケアセンター「アダマン」。『アダマン号に乗って』は、そこに日々集う精神疾患者たちの様子を捉えたドキュメンタリーだ。ただし、船の形といっても実際に出港するわけではない。木造造りの建物が川岸近くに固定してあり、川岸から乗り込み用の通路が設置してあるのだ。
「精神疾患者のドキュメンタリー」とはいえ、息の詰まる深刻さや暗さ、あるいは“奇行”の類いを見世物とするような作品ではない。映っているのは、人々が生き生きと音楽や絵画といった芸術活動、あるいは知的な会話を楽しんでいる姿だ。彼らひとりひとりへのインタビューも実に味がある。
なぜ、彼らは心を病んでいるのに、こんなにも生き生きしているのだろう?
映画を観はじめて、思い出したことがある。筆者はかつて出版社に勤務していたが、ストレスで心がくたびれ果てていた時期に一番リフレッシュできた仕事は、芸能人や文化人へのインタビューだった。
理由はいくつかある。
まず、インタビュー相手は筆者について、出版社の編集者であること以外、何の情報も持っていない。ゆえに筆者としては、日々のつらい状況とはまったく無関係の話題で談笑することができ、相当な気晴らしになった。事情を知らない人間との他愛もない会話は心を癒やすのだ。
また、インタビューというものが、雑誌や書籍といった「ものをつくる」ために行う仕事である点も大きい。大袈裟に言えば、創造性と生産性に富んだ行為だ。創造や生産は、鬱を確実に緩和する。
心が沈むと、明るい未来がまったく想像できなくなくなる。今までの努力がすべて徒労だったと思い込む。「この先、何もいいことがない」というネガティブな思考に陥る。しかし、自分がいま手を動かしていることが、何かを生み出す前向きな行為だと感じられた瞬間、心は少しだけポジティブになれる。
アダマンも同じ機能を果たしている。自分を知りすぎていない人たちと交流する場、かつ、何かを創造する場なのだ。
社会と接続しながら、接続しない
出版社社員としてのインタビューという仕事には、「会社員でありながら、会社外の人と交流する」という、絶妙な丁度良さがあった。
なぜこれが、丁度良いのか。
生真面目な人は、仕事が手に付かなくなるほど精神状態が悪化すると、重大な決断を迫られる。このまま我慢して仕事を続けるか、仕事を休むかやめるかして長期療養するか。
前者が苦しいのは当たり前。しかし後者も死ぬほど苦しい。生真面目な人にとって、「会社」と「社会」はほぼイコールだからだ。仕事を休んだりやめたりすれば、社会(会社)との接続が切れてしまう。もう二度と普通の社会生活を送れなくなるかもしれない、という不安。とてつもない恐怖が襲う。
社会とつながりすぎているから、疲れる。しかし社会から隔絶されていれば、不安。では、どうすればいいか。正解は、「社会との接続は保った状態で、しかし、そこにいる間だけは社会と接続しなくてよい場所」に身を置くことである。
会社の外に出て行うインタビューは、仕事ではあれ、会社との接続を一時的に断つことができる。だからその時間だけは、なんとか「息をする」ことができた。
アダマンが川に浮かぶ船なのは示唆的だ。川岸からの通路によって地上=社会とつながってはいるが、朝、通路を歩いて船に乗り込んでしまえば、そこは地上ではなく水の上。彼らの心を蝕んだ社会からは、きっちり隔てられている。たかが場所、されど場所。場所は、それほどまでに人の心を左右する。
通いのデイケアセンターなので、1日が終われば、彼らは来た通路を戻って地上=社会に帰っていく。自分は社会と途切れていないと実感できる。「二度と普通の社会生活を送れなくなるかもしれない」という不安に押しつぶされることはない。
アダマンが「出港しない船」というのも実に絶妙だ。川岸から離れてしまっては、物理的にも精神的にも社会から離れすぎてしまう。接岸くらいが丁度良い。
心にストレスをかけない方法
心が疲れている人間は、物事を0か1かで決めがちだ。良いか、悪いか。成功か、失敗か。だが本来、物事は0か1ではない。白と黒の間に無限のグラデーションがあるように、「何か」と「何か」は線を1本引いて区切れるようなものではない。
しかし心が疲れると、そういう膨らみやしなやかさ(いわゆる「レジリエンス」)のある思考ができなくなる。思考が単純化し、結論は極論化し、ネガティブに振り切った極端な悲観論に頭が覆い尽くされる。
境界をはっきりと示さないこと、社会と接続していながら接続していないこと。これは、心にストレスをかけないで毎日を送るための技術だ。だからこそ、高価なノイズキャンセリングイヤホンが売れ、皆マスクを外さず、匿名や鍵付きのSNSに人が集う。いずれも「社会とつながりながら、任意に拒絶する」ことを実現する方法である。
そもそも、精神疾患者と精神疾患でない者との境界とて、線1本引いて区別できるものではなかろう。
ケンちゃんのこと
『アダマン号に乗って』に登場するある精神疾患の男性は、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』(84)に登場する兄弟のモデルは自分と兄だ、とカメラの前で主張する。曰く、「ヴェンダースの映画(注:『パリ、テキサス』)に出てくるトラヴィスとウォルト。彼らはレーガン時代のアラン(注:彼の兄)と僕だ。だがヴェンダースはそれを誰にも言わなかった」
このシーンで、筆者はケンちゃん(仮名)のことを思い出した。ケンちゃんとは、かつて都内の某私鉄駅前にあった、ある家庭的な居酒屋の常連客のことである。男性で、年の頃は当時推定で60代後半。店から徒歩圏内に住んでいるようだった。
ケンちゃんは、「◯◯◯◯の『△△△△』というヒット曲 は、実は俺が作曲した」と豪語していた。◯◯◯◯は日本を代表する超大御所シンガーソングライター、『△△△△』は彼の超がつく大ヒット曲である。ケンちゃんはこう説明していた。
「◯◯◯◯がまだ若手の頃、俺も含めて何人かでギター持ってよく集まってたの。その時、俺が作ったメロディーを元にできたのが、あの曲。だから◯◯◯◯は俺に恩義を感じて、あの曲の印税の一部を今でも俺に払い続けてくれてる。俺がこうして飲めるのは、その金があるから」
ケンちゃんは新参の客を見つけると、そのテーブルに行き、決まってその話をするようだった。「『パリ、テキサス』のモデル」の話と、なかなかいい勝負だ。
筆者も何度目かの来店時にその洗礼を受けた。店にいた他の常連客や老女将は、ケンちゃんに特に突っ込むこともなく、「あんまり絡みなさんな」と優しく言うのみ。筆者と連れは「本当ですか!?」を連発し、気を良くしたケンちゃんは自分の生い立ち話(置屋の息子だそうだ)までしてくれた。帰り際、老女将にあの話は本当ですかと聞くと、そもそもケンちゃんの素性をあまり知らないようだった。
たぶんその居酒屋は、ケンちゃんにとってのアダマンだった。顔なじみの常連は何人もいるが、自分の素性を知りすぎてはいない。そして、常連たちの会話は――創造性と生産性に富んでいるかはさておき――基本的に「前向き」だった。老女将の人柄がそうさせているらしく、酒が不味くなる愚痴や悪口が聞こえてきたことはない。皆、いつも笑顔で「楽しいこと」だけを話していた。
ケンちゃんの話を本当か嘘か、1か0かで断定するような客は(おそらく)その店にはいなかった。だからケンちゃんは、新参の客が来るごとにその話をし続けることができた。誰に咎められるでもなく、のびのびと、生き生きと、満面の得意顔で。
透明ガラスとすりガラス
その居酒屋はコロナ禍で休業が相次ぎ、数カ月前、ついに店を閉めてしまった。女将が老齢だったこともあるだろう。その後、建物には大々的な内装工事が入り、オーナーが変わって小洒落たカフェがオープンした。入り口は透明ガラスの引き戸。表から店内の様子がよく見える。新規オープン店だけに、通りすがりの一見さんも入りやすくする工夫だ。
カフェの前を通りかかった時に気づいた。老女将の居酒屋も同じく引き戸だったが、透明ガラスではなく、すりガラスだったことに。外から店内は見えない。ただ、すりガラス越しの光にはなんとも言えない温もりがあり、漏れ聞こえる常連たちの笑い声はいつも楽しそうだった。
数年前、初めてその居酒屋に入った時のことを覚えている。勇気を出してガラガラと引き戸を開け、店内を見回して1秒で理解した。ここは絶対に居心地がいい場所だ。果たして、その通りだった。
中が丸見えの透明ガラスではなく、よく見えないすりガラス。1本の通路でソフトに隔てられた川岸とデイケアセンター。外界とつながっていながら、適度に隔てられていること。この、絶妙な遮断具合がもたらす、絶対的な居心地の良さ。どんなに嫌なことがあっても、ここに来さえすれば安心して息ができる、ここは安全だと確信できる場所。
ケンちゃんはまだあの街に住んでいるのだろうか。ケンちゃんが安心して「実は俺が作曲した」と気分良く話せる――セーヌ川に浮かぶアダマンのような――場所が、他に見つかっていればいいのだが。
『アダマン号に乗って』
監督・撮影・編集:ニコラ・フィリベール
*第73回ベルリン国際映画祭 金熊賞〈最高賞〉受賞
配給:ロングライド
4月28日公開
https://longride.jp/adaman/index.html
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