東大・京大・名大エリート女子が語る、上野千鶴子の問題提起と“かわいさ”の呪縛
#アイドル
難関大の入試における「女子枠」の設置は、“逆差別”ではないのか?
大学教育にも多様性が求められるようになり、大学入試で「女子枠」を設ける大学がたびたびニュースになっている。2022年に話題を集めた大学といえば、なんといっても東京工業大学だろう。わずか約13%という現在の理工系の女子学生比率を高めるべく、2024年4月入学者の入試では58人、翌年は85人の女子枠を導入すると発表。「入学者における女子学生比率2割」の達成を目下の目標としている。
田中 ニュースにもなった東工大、あずきさんの卒業校である名大など、難関校が工学部に「女子枠」を作る動きについてはどう考えていますか? 機会の均等化を促す「アファーマティブ・アクション」【註】の取り組みは、東大では2027年度までに女性教授、准教授を約300人増やすといった形でも見られます。
【註】社会的な差別によって不利益をこうむっているとされる集団に対して、その環境を是正するために講じられる一時的な措置のこと。学校や企業において、特別な採用枠を設けたり入学・採用試験において試験点数を割り増したりするのは、その典型例。
なつぴ 女子枠の設置は、男性に対する逆差別だと思います。それに、女子枠がない時代にがんばって東工大に入った女の子がかわいそうなだけでなく、女子枠ができてから東工大に入って「女子枠だから入れたんでしょ?」と言われるかもしれない子もかわいそう。
女性の活躍を推進するのが本来の目的のはずなのに、女子の数を増やすだけでいいのか、という疑問があります。もっとやるべきことは根本的なところにあるんじゃないでしょうか。例えば、女子が浪人しやすい環境を作るとか、理系職をもっと女の子にとって魅力的なものに変えていくとか。理系職は勤務地が僻地だったり、作業着がかわいくなかったり、作業内容も女の子にとって魅力的なものが少ないと感じます。
あずき 私も、女子枠の設置は逆差別に思えますね。理系の学生を増やすためには、理系職に就いて生き生きと輝いている女性のロールモデルを増やすための施策が必要ではないでしょうか。現在でも理系職はやはり男性中心社会で、とても女性が出産や育児をしながら将来設計ができる環境ではないように思います。
田中 なつぴさんがおっしゃる後半の部分、「もっとやるべきことは根本的なところにある」という提案や、あずきさんが言う「ロールモデルを増やす施策」にはおおむね賛成です。けれども、そうした「根本的なところ」を改善したり「ロールモデルを増や」したりしていくためには、やはり理系に進学する女子の数を目に見えて増加させる必要があると思うんですよね。その意味で、一時的に「女子枠」は必要だと私は考えています。数が少ない状態だと、勤務地が僻地だとか作業着がかわいくないとか、そういった不満の声もそもそも上げにくいし、上げたとしても聞き入れてもらえるとは思いませんよね。えもりさんはいかがでしょう?
えもり 女子枠の設定については私は、マクロな視点では賛成で、ミクロな視点では反対、という立場です。まずマクロな視点でいえば、数の問題をクリアすることには確かに大きな意味があると思うんです。理系の世界で女性が増えるためには、例えば先ほど先生も指摘されたような大学の女子トイレが整備されていないといったことや、あるいは理系職の作業着がかわいくないといったことは大きな障壁となっている。といって、理系の世界にいる女性の数がもっと増えないことには、こうした「女子トイレや作業着が障壁となっている」と訴える声すら出てこないでしょうから。
つまり、無理やりにでも女子の数を増やさないことには、そもそも女子が入学しやすい環境さえ整わないという現実がある。それならば、「女子枠」を作ること自体は、世の中が変わっていくために必要なんじゃないかな、と。
でも一方で、ミクロな視点でいえば、女子枠のせいで不合格になる男子学生がいたり、「私は女子枠だから入れたのかな」と感じながら生きることになる女子学生がいたりするだろうと考えると、あんまりよくないことなのかなとも思うんです。とはいえ、バランスと時代の流れを見て、ある程度、諦めるところは諦めていかないと、女子学生をめぐる状況は変わらないのかなと思っています。
田中 えもりさんのご意見には、多くの女性たちが賛同するんじゃないかな。
「かわいい」を作る道具は、容姿以外にもたくさんあるのではないか
日本においてアイドルとは、一般的に「かわいい」ものだとされている。その「かわいい」を「賢い」の対義語として使ったのが、上記の上野千鶴子氏による2019年の東大入学式の祝辞だ。上野氏は、「女子は子どものときから『かわいい』ことを期待されます」としたうえで、女子に求められる「かわいさ」とは、男性を脅かす力を持たないことである、と論じた。しかし一方で女子のあいだには、快い感情がわくものを「かわいい」と呼び、それを愛でる文化もある。では学歴の暴力の3人は、この「かわいい」をめぐる問題をどう考えているのだろうか?
田中 最後に、「かわいい」という言葉や「かわいさ」について、みなさんがどんな考えを持っているのか教えてください。
あずき 私は小さい頃から、「女性の武器となるかわいさ=見た目のよさ」だと思って生きてきました。でもこの歳になって、見た目のかわいさは継続的な武器にはならないという危機感を感じています。
なんでも一番になりたいと思っていた私は、学業でも容姿でも人より秀でるためにがんばってきました。だけど結局、学業でも容姿でも、中途半端にしか欲しいものが手に入らなくて、自分に自信が持てないままで……。最近は、今後どうやって生きていけば、人に評価される対象であり続けることができるんだろうとよく考えています。
なつぴ 私も「かわいい」で思いつくのは、やはり容姿のよさです。私はずっとアイドルが大好きで、自分もアイドルになりたいと思い続けてきたので、見た目のかわいさで他人を惹きつけることには大きな価値があると思っているんです。私自身、容姿のいい女の子を見ていると幸せになりますし、自分なりに努力して見た目がよくなってからのほうが、結局中身を見てもらえるとも感じます。
ただ、私自身、心からかわいくなりたいと願って、死ぬほど悩みながら努力もしてきたのに、その一方で、表の皮一枚に執着しすぎる人生は不幸になるだけだ、とも思っているんですよ。容姿は必ず衰えるし、どれだけ磨いても上には上がいますから。
よく考えれば不思議ですよね。別に顔の骨や筋肉、皮膚がどうであれ、生きていくことには物理的になんの影響もしないはずなのに、なぜ人間は見た目のよさにとらわれてしまうのか。
えもり 私は、「かわいい」とは心が動くこと、もしくは心を動かす力を持っていることだと考えています。一般的に目の大きい人や笑顔の印象的な人が「かわいい」とされますが、それはまさにその人の目の大きさや笑顔といった特徴によって、その人の感情がこちらに伝わってきてこちらの心が動かされるということなのではないか、と。そしてそれがプラスの効果を生むから、かわいいことはいいこととされている。
そう考えると、「かわいい」は顔で作らなくてもいい。例えば、「ほっこりしていてかわいいおばあちゃん」は、「かわいい」けど「おばあちゃん」なわけです。おばあちゃんがなんらかの行動や言葉で、こちらの心を動かしているから、かわいいと感じられる。それならば、「かわいい」を作る道具は「顔」や「容姿」以外にもたくさんあるのではないかと考えています。
田中 ありがとうございました。「かわいい」にも、規範化された「かわいい」と、規範をぶっこわしていくような「かわいい」があると思うんです。学歴の暴力のみなさんにはぜひ、後者の「かわいい」を追求していってほしいな、と思ってます。それを遂行する力を、みなさんは持っていると私は感じています。
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