『微笑みの爆弾』、それからのこと。歌手・馬渡松子が初めて語る『幽遊白書』の前と後
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アニメーション史の金字塔ともいえる人気アニメ『幽遊白書』。本作は内容もさることながら、主題歌が名曲揃いなことでも有名だ。このオープニング1曲とエンディング5曲、全6曲のうち『微笑みの爆弾』を含む4曲を担当したのが馬渡松子である。
だが、その活動は楽曲ほどには知られていない。彼女はデビュー前に「ティナ馬渡」としてDREAMS COME TRUEのサポートメンバーを経験し、なんと人気ライブ企画「ドリカムワンダーランド」第1回目でキーボードとコーラスを披露。さらに『幽遊白書』の主題歌を経てからは神経症を患って地元に送還されるなど波乱万丈な日々だったという。
今回はこれまで語られることがほとんどなかった壮絶な半生を本人にインタビュー。その過去はまさに“唇の裏側に隠された爆弾”だった。
「アリガトウゴザイます!」が言えなかったドリカムのサポート時代
――中学生時代はブラスバンド部でフルートを吹かれていたとか。
馬渡松子(以下、馬渡):宮崎県・三股町の中学校出身なのですが、のめり込んで毎日吹いてました。NHK交響楽団の首席フルート奏者になるのが夢だったんです。そのためにレッスンを受けたり、実際に演奏を観に行ったりして勉強しましたね。一方で小さい頃から声域が低く、高音で歌うと音がひっくり返るので音楽の実技テストが大嫌いだったんです。だから歌に魅力を感じずに、聴くのはインストものばかりでした。
好きだったのはYMOやリチャード・クレイダーマン、フランク・ミルズ、ジョン・ゾーン、ジョン・ケージなど。あとは平日夕方のラジオ番組『軽音楽をあなたに』(NHK-FM)が楽しみでした。そこでかかるエマーソン・レイク・アンド・パーマーに衝撃を受けたんですよ。途中から歌が入ってくるじゃないですか。そこで「ああ、ボーカルもいいな」と。
――ご自身でも歌いたいと思うように?
馬渡:そうですね。高校では吹奏楽部がなかったので合唱部に入りました。あとはプログレバンド・ASIAのコピーバンドを女の子で組み、文化祭で発表したのも大きかったです。ギターを弾きながら歌った時に上がった歓声、あれがきっかけで「自分は歌でやってくかな」とぼんやり考え始めました。文部省唱歌は苦手でしたが、ロックやヘヴィメタルを歌う男性のハイトーンボイスが私の声域に合っていたんです。
――故郷・宮崎から上京されてからのことも教えてください。
馬渡:千葉大の教育学部に進学しました。小学校教員養成課程の理科専攻に決めたのは生態系が好きだったからなんですよ。生産者と消費者の間にフンコロガシやバクテリア、映画『風の谷のナウシカ』の王蟲(オーム)みたいな「分解者」に昔から憧れていて(笑)。理科の先生にもなりたかったんです。
大学では音楽サークルに入って、ボーカルだけでなくキーボードやベースも触れつつ、メタルやフュージョンなど6バンドほど掛け持ち。デニーズで深夜3時までバイトして、その帰りにAC/DCを聴きながら自転車で帰るような生活ですよ。
当時はヘヴィメタルの音楽性も好きだったのですが、友達から教えてもらったパンクにも惹かれていました。テクニカルなメタルとは違い、パンクは文学なんですよ。セックスピストルズから日本のインディーズまで、ソノシートで聴かせてもらったら「すごくわかる……」と。そういう私の反応に、その女友達も泣いて喜んでくれて、ふたりで「シマウマ」というパンクユニットを組んで活動していた時もあります。
それからプログレパンクなバンドを組んで、インディーズでデビューしようかと考えていたある日、雑誌「Player」(プレイヤー・コーポレーション)を読んでいたら、「ボーカル教えます」という文章が目に留まりました。それが「微笑みの爆弾」でも作詞を担当してくれたリーシャウロンの投稿だったんです。それから彼に歌を習い、コーラスの仕事も紹介してもらうなどお世話になりましたね。
――『幽遊白書』の楽曲が生まれる布石としての運命的な出会いですね。それから一緒に作品を作るようになると。
馬渡:ほどなくして「一緒にタッグを組まないか?」と言われたんです。「おまえは作曲はできるし、打ち込みも頑張れ。俺は詞を書くから」と。彼はポップな曲だけではなく、私のアンダーグラウンドな曲にも歌詞を付けられるポテンシャルの持ち主なんですよ。ふたりでタッグを組んでからは芝浦・インクスティックや川崎・クラブチッタに出演しながらデモテープをばらまき、結果的にシンコーミュージックさんとMSアーティストさんから声をかけていただきました。
リーシャウロンはシンコーさん推しだったのですが、DREAMS COME TRUEさんが右肩上がりで売れていたのと「2年修行してからデビュー」という前提で声をかけてくれたのとで私はMSアーティストさんに行きたかったんです。やはり、すぐにプロになるのは不安でしたから。それにリーシャウロンも承諾してくれて、MSアーティストさんに所属後にドリカムさんのサポートをすることになったんです。
――打ち込みはいつからやられていたんですか?
馬渡:当時はプリンス、特に『バットマン』(1989年)、ミクスチャーロックバンドのフィッシュボーンなど、白人と黒人の音楽が混ざったものが好きだったので、そういうバンドをやりたかったんです。でも、なかなか形にしづらく、だったら自分でやろうと思ったのがきっかけでした。バイト代で手に入れたローランド「S-50」(銀盤ー体型サンプラー)を外部ディスプレイにつなげて数値を入力しながら音色を設定していましたね。
それにローランド「MC-500」(シーケンサー)も同期させて。そして「TASCAM 246」(カセットMTR)に打ち込み、KORG「DW-8000」などのシンセサイザーを重ねた録音を繰り返しながらデモテープを作っていたんです。「S-50」と「MC-500」を同期させていた人は多くなかったと思いますよ。ちなみに私の打ち込みは楽曲「逢いたし学なりがたし」や「バースデイがのしかかる」で、そのまま使っています。あの頃の部屋はケーブルが散らかって、ぐしゃぐしゃでした。
――生演奏っぽいニュアンスを出すためにリズムのクオンタイズ(アジャスト機能)を調整していたそうですね。
馬渡:「S-50」はリズムの分解能の数値が低いので、シャッフルさせる(リズムを跳ねさせる)にしてもバウンスの幅の調整がしづらかったんですよ。どうしてもノリがスクエアになってしまう(均等すぎる)ので、キックやスネアなど楽器ごとにクオンタイズの数値を変えたり、ストリングスならリズムに対して前に配置して、生っぽいグルーヴを出すように心掛けていました。
ドリカムの中村正人さんに6万円で譲ってもらったATARIを使うようになってからも、クオンタイズの調整は変わらずやってました。中村さんも「MC-500」で打ち込みをしていたので、私のやっていることに理解があったのだと思います。
――ドリカムのサポート時代についてのお話も気になります。
馬渡:もう勉強になったというレベルじゃないですよ。ドリカムは打ち込みをベースにしたバンドで、中村さんからも「音源に近い感じで演奏してくれ」と言われていました。リハーサルの1週間前からは元メンバーの西川(隆宏)さんとスタジオにずっとこもって、音色プログラミングの仕込みをしてました。これが本当に大変で。
実際のリハでも進行についていけずパニックでした。あるとき、「未来予想図Ⅱ」の、あのイントロが鳴らずに大問題に(笑)。「どうなってるんだ?」と現場がザワつくなかで必死に配線を確認したのを覚えています。1年目のリハは毎日泣いて帰りました。
――初回の史上最強の移動遊園地「DREAMS COME TRUE WONDERLAND」(1991年)も、馬渡さんがキーボードとコーラスを務めていたんですよね。
馬渡:そうです。最初が国立代々木競技場第一体育館で、その後は大阪城ホール、名古屋レインボーホールと。今思えば、21歳ですごい経験をさせてもらいましたね……。
2年目からは慣れもあり、だんだんと楽しくなってきたんですよね。せっかくここまで続けたから、中村さんに「もう私ドリカムにいます」と伝えたら「何言ってるんだ、2年うちでやったら3年目はデビューと決まってるだろ」と返されたのも懐かしい。デビューしてからも彼には1stアルバム「逢いたし学なりがたし」のプロデュースをお願いして、録音時の生ブラス指揮や「男友達」という曲でコーラスをしてもらいました。
ーー吉田美和さんは?
馬渡:美和さんも私の楽曲「フォーチュンテラー」のレコーディングを見ながら「マワ、すごい良い曲だね」と言ってくれて。ただその時は歌に集中しすぎるあまり「ありがとうございます」のひとことも言えず「ああ、そうですか」くらいに返してしまったんです。それは今でも悔やんでますね。打ち込みをやっていたことや病気もあり、コミュニケーションが苦手だったんですよ。
ちなみに「ティナ馬渡」というステージネームを付けたのも美和さん。おそらく、顔のワイルドさとティナ・ターナーのようなウィッグを付けていたのが由来だったのかな(笑)。
――1992年にデビューした時の心境はいかがでした?
馬渡:渋谷のスクランブル交差点を渡ったところに、垂れ幕の広告が出たんですよ。歩いていると「あ、私だ!」と。レコード会社の方には本当に頑張ってもらいましたね。ただドリカムファミリーということで期待もされていたのですが、そこまで売り上げは伸びませんでした。でも、それを聴いた方がオファーしてくれたのが『幽遊白書』の楽曲の制作だったんです。
2ndアルバム『nice unbalance』の9曲目が「微笑みの爆弾」。その制作だけは中村さんも見守ってくれていましたが、あとのセルフプロデュースは試練の連続でした。ポップだけどR&Bなどのブラックミュージックの要素を入れたり、とにかく制作が大変だったことしか覚えていません。
多額の印税、神経症での入院、声の喪失と復帰
――アニメ『幽遊白書』の楽曲について、もう少し詳しく教えてください。
馬渡:「微笑みの爆弾」と「デイドリーム ジェネレーション」はタイアップ曲で、「さよならbyebye」と「ホームワークは終わらない」はアルバム曲からクライアントが選曲したものなんです。「微笑みの爆弾」は原作漫画を1巻だけ読んで作り、「デイドリーム ジェネレーション」は「『微笑みの爆弾』みたいな曲を」という要望でした。
それまで、私にとってアニメのイメージは『カルピス劇場』と『一休さん』くらいでしたから「微笑みの爆弾」を制作するときは、子どもたちにどう聴いてもらうのか悩みながら、クライアントに提出する直前までリーシャウロンと徹夜しました。『一休さん』のような寂しげな想いをサビの和声と旋律に託し、でも元気に生きているという気持ちを込めています。
音楽的にいうと、Aメロはシンプルに作曲と打ち込みを楽しみ、Bメロはつなぎとしてなめらかにサビへの導入することを意識しました。最後の<ア・リ・ガ・ト・ウ・ゴ・ザ・イ・ます!>と、<するんだろうね>の「ね」は、アニソンタイアップとして自分を殺したつもりです。詞もメロディも一緒に、またアレンジ打ち込みも同時にできた唯一の曲ですね。
「さよならbyebye」の時は、フレンチポップが好きで、ヨーロッパ調の淡々とした曲が作りたかったんです。制作は私にしてはめずらしい直球8ビートの打ち込みからで、それにメロディを乗せました。まるで絵に文字を書くような感触で。あとからリーシャウロンが詞を付けてくれましたが、正直<byebye>の言葉が当初、自分の感性に合ってない気もしていて(笑)。でも、レコーディングでセリフのような解釈で歌ったらハマりました。
――なるほど。
馬渡:『幽遊白書』の曲はクライアントの意向と自分のやりたいことのバランスが難しかったですが、特に「デイドリーム ジェネレーション」は手強かったですね。サビの最初のフレーズは出来上がっていたけど、<風が吹いて/雨が降って/心は揺れても>のメロディと進行が自分としてはお決まりすぎて気に入らない、でも制作チームは「それそれ!」と。
最終的に渋々で決定したのですが、結果、それが多くの方の心に届いたんです。妥協ではないのですが、聴いてくださる方の期待に応える気持ちは大切にしなきゃいけない、ということはその場で学びました。
「微笑みの爆弾」と「デイドリーム ジェネレーション」は、どちらも歌詞が元気な半面、切ないコード進行であることもポイント。ひとりぼっちの人が寂しさを感じる時に元気になってもらう、というリーシャウロンの言葉と私の音楽がバッチリ絡み合ったチームとしての集大成だったかなと。
ーー『幽遊白書』は最高視聴率24.7%(64話・1994年2月12日放送)を記録しますが、ご自身への影響はありましたか。
馬渡:放送中は特になかったと記憶しています。ただ、いきなり印税が約700万円ほど入ってきたことが驚きでしたね。あれは、20代の精神衛生にとってよくない。私の場合は「どうしたらいいんだろう?」と、とりあえず街を徘徊しながら家具などを物色していた気がします。結局ビンテージの楽器を買いまくり、中毒めいた感じになってしまいました。
――その後、1996年にMSアーティストを退社、自身のレーベル「Pit’a Patレーベル」を設立し、ご病気を患ったと。
馬渡:3rdアルバム『AMACHAN』(1994年)は、ニューヨークでプリンスファミリーのエンジニア、スーザン・ロジャースと一緒に制作した一番気に入っている作品です。やりたいことはやれましたが、こちらも売り上げにはつながらず。結局売れたのはタイアップの曲だけで「馬渡の音楽は前衛的」だと言われることもありましたね。私はひとりぼっちの人に向けて作品を作っていたつもりだったのですが、もしかしたら自分を慰めたかっただけかもしれません。
結局ディレクターさんも担当を降り、後任もなし。エッセイやラジオ、プロモーション、制作など、今まであったいろいろな仕事も一気になくなって。それから事務所が新しいレコード会社を探してくれるなかで焦ってしまったんですよ。なぜか待てなかった。それを機に、自分でインディーズレーベルの運営を始めたんです。若いファンの方々が「馬渡、頑張れ!」と応援してくれて、それで私も頑張りました。でも挨拶もなしに事務所を辞めてしまったことで誰からも見向きもしてもらえなかったですし、多くの業務をひとりで抱えたのも今考えれば、あまりに無謀でしたね。
それから突然、ちょっとした物音が否定的に聞こえるようになったんです。電車の「ガタンガタン」という音が「死ね死ね」に聴こえる。物音に敏感になり、いつも「何かやらないと!」という強迫観念に追われて眠れなくなりました。
限界が訪れたのは、29歳頃にツアーで大阪を訪れた時のこと。ドアが閉じた音も「死ね」と聞こえるので、トイレにも行けなくなって。ライブハウスの人に「馬渡さん、何がきついんですか?」と声をかけられても、何がつらいのかも説明できない。
結局、その後の京都と滋賀の公演もキャンセル。そのまま保健所に連れていかれて入院を勧められました。「もう、殺してくれ!」と言ったら、お医者さんに「じゃあ死ねば?」と返されたことも覚えています。
――神経症で入院されてからはどのように過ごしていたのですか。
馬渡:東京の病院に入院しました。そこでの娯楽は火曜日の夜に放送される歌番組なんですよ。そこで聴こえてきたのは岡本真夜さん、SPEEDさんの曲。それを観ながら「自分は何だったんだろう?」と考えるばかりでしたね。投薬治療の副作用で舌の筋肉が緩んだことによって歌も歌えなくなり、もう東京で仕事はできない。生きる意味を失った気持ちでした。これで「もう宮崎に帰りましょう」と。
その後は地元・宮崎県三股町で、母と昆布巻きの内職をしてました。ここで「夢がない」、「先が見えない」ということは魂が抜けることだなと思い知りましたね。自殺未遂をして、母に止められたことも数知れず。でも、そんなある日、ある楽器店の方が「うちでボイストレーナーをやってみませんか?」と声をかけてくれて、引き受けることにしたんです。
最初の生徒はひとりだけ。私も満身創痍で声は出ませんでしたが、伴奏をすることで、だんだんと生徒たちとコミュニケーションをとれるようになっていきました。
――音楽とはずっとつながり続けていたんですね。その後、2011年のフェス「Anime Japan FES~夏の陣~」での復帰は、なぜ決心されたのですか。
馬渡:影山ヒロノブさんから熱烈に誘っていただいたのですが、声も出ないこともあってオファーを3年ほど断り続けていました。でも、その時期にある人と出会って、その人が私のマネージャーになると申し出てくれたんです。声もまったく出ないのに再起を決心できたのは、そのマネージャーのおかげ。今でも感謝しています。
復帰後は、まったく歌えない自分を見て、「残念だ」という人もいましたが、決めた以上はやるしかありません。今でも忘れられないのが、最後の名古屋・Zepp Nagoya。曲間のステージドリンクをマネージャーが持ってきてくれたんです。彼は素人ですから、手を震わせながらステージに上がってくれて。その気持ちがうれしかった。その後から出演のオファーが来るようになったんですね。
それから弾き語りの現場などで歌わせてもらいましたが、皆さんが感動してくれるのは私の歌がうまいからでも懐かしいからでもなく、声が出なくても一生懸命歌う姿でした。東日本大震災の時に東北でパフォーマンスした際も「馬渡さんの気持ちはわかりました。俺たちも頑張ります」と言ってもらえました。2015年の【Anime Friends】(ブラジルで開かれた10万人規模のアニメイベント)もそうでしたね。「生き方」で共感してもらえたのかなと。歌の力ってすごい。
――音楽活動で病まれた馬渡さんですが、また音楽によって助けられたということですね。馬渡さんは現在、如月-kisa-というお名前で再々出発をされています。また昨今の90年代ブームも相まって、馬渡さんの過去の曲もまた注目を集めており、YouTubeにはカバー動画もたくさんアップされていますが、こうしたリスペクトについて思うことは?
馬渡:当時は「馬渡の曲は前衛的だ」「全部『幽遊白書』に聴こえる」と言われることもありましたが、今のシーンはもっと難しい音楽も多いこともあり、「もう一度聴こうかな」と思っていただけているみたいです。
でも日本でいえば、70年代のはっぴぃえんどから日本語ロックが確立していき、80年代の歌謡曲を経て、90年代に馬渡松子の音楽があった。ただそれだけのことだと思ってます。私は次のステージに向かいますが、90年代にメジャーで作っていた曲を聴いて「表現は自由」だと感じてくれたらうれしいですね。
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