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日刊サイゾー トップ > カルチャー > 映画  > 『フェイブルマンズ』思ってたのと違う
稲田豊史の「さよならシネマ 〜この映画のココだけ言いたい〜」

『フェイブルマンズ』は「思ってたのと違う」映画

『ミュンヘン』『インディ・ジョーンズ』の不謹慎

「目を覆うばかりに残酷だけれど、このめちゃくちゃ燃える(萌える)、映(ば)えるシーンを絶対に映像化したい!」。その欲望を叶えるために後付けで物語を作っている、あるいは後からそれに適う原作を探しているのではないか? と思ってしまうほどに、スピルバーグの「この画が撮りたい欲」は凄まじい。

 1972年のミュンヘンオリンピック事件と、その後のイスラエル諜報特務庁(モサド)による報復作戦を描いた『ミュンヘン』(05)は、イスラエルとパレスチナの憎み合いの連鎖が引き起こす悲劇と虚しさを描いた人間ドラマ……ではあるが、その画的な見どころは別にある。モサドに依頼された暗殺チームが実行する、最高に美しい殺傷だ。

 たとえば、暗殺チームがある報復相手を射殺するシーン。射殺された男は直前に瓶入りの牛乳とワインを買って紙袋に入れて抱えていたため、撃たれた瞬間に白い牛乳と赤いワインが、つまり2色の液体が同時に美しく噴出する。

 撃たれた彼が床に腹ばいで転倒すると、先に落下していた紙袋を体躯が押しつぶし、白と赤2色の液体が周囲の床へ綺麗に飛び出す(その状況が画的に映えるよう、カメラアングルは真上からに切り替わる)。その後、暗殺チームの仲間が現場に銃弾を拾いに来ると、今度は床のアップ。こぼれた白い牛乳が半透明状態で覆っている床に、今度は赤いワインならぬ赤い血がゆっくり侵食していく。美しすぎる。

 上半身裸の女性を至近距離からジップ・ガン(パイプに弾を詰め、手で直接叩いて発射する武器)で殺すシーンでは、肌がむき出しの胸に直接着弾する。絶命寸前の女性が乳房のはだけた状態でしばらく部屋を歩き回ったのち、遅れて血がピューピュードクドク流れ出る描写はもはやアート。スピルバーグの狂気を感じざるをえない。

「画的な面白さ」の徹底追及は時に、「さすがに不謹慎」と言われることもある。たとえば『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(08)では、住人に模したマネキンがそこここに置いてある砂漠の町にインディが迷い込むが、実はその町は核爆発の実験場。爆発のカウントダウンが始まり絶体絶命となったインディは、民家の冷蔵庫(鉛でできているので放射能を通さないという設定)に入って扉を閉める。そして爆発。ニュース映像などでよく見る、核爆発が家やマネキンを吹き飛ばす凄惨な映像。冷蔵庫はふっ飛ばされて宙を舞い、地上に落下。扉が開き、そこから無事のインディがごろんと出てくる。

 アイデアも画面も、面白いは面白い。しかしその激しい衝撃でインディが大怪我を負わないはずはないし、爆風でふっ飛ばされた程度の距離では、冷蔵庫から出たインディが大量の放射線を浴びてしまうはず。被爆国の国民である我々からすると、さすがにフィクションですからとは片付けられない、モヤっとした不謹慎さが漂っている。

開示された「フィルムの暴力性」

 スピルバーグにはいつも、「どうしても撮りたい画」がある。それが、ショットやシーン単体ではたとえ不謹慎だと言われる性質のものあっても、彼は何とかして、その画が作中に存在する必然性を全力で用意する。多くの人が眉をひそめる半端なくリアルなゴア描写であっても、戦争ヒューマンドラマという誰も否定できない大義名分に紛れ込ませれば、シーンの存在は許容され、むしろ称賛される(それが『プライベート・ライアン』だ)。

 ある種のスピルバーグ好きは、彼のそういう狡猾さを、茶目っ気を、あるいは家族ドラマの名手などと言われる陰で毎回炸裂する狂気や変態性を、こよなく愛している。「すごい映像」が撮りたいというその一心で、「家族愛」モチーフを方便として利用し、大予算を引っ張ってくる彼の映画人としての手腕を、心からリスペクトしている。

 では『フェイブルマンズ』においてスピルバーグが本当に描きたかったことは、いったい何だったのか。おそらく今回は、「どうしても撮りたい画」というより「どうしても撮りたいテーマ」だった。

 それは、フィルムというものの暴力性だ。

 映画の記録媒体としてのフィルムは、ゴア描写とは別の意味で「残酷」だ。なぜなら、撮られている被写体が意図せざるものが、あるいは映ってほしくない内面が、どうしようもなく映りこんでしまうことがあるからだ。それは、もはや暴力と呼んでよい。

 スピルバーグはそんなフィルムの暴力性を、少年時代に早くも気付いてしまった。キャンプ旅行でカメラを回していたサミーは、期せずしてそのフィルムに、母・ミッツィの「ある真実」が写り込んでいることを発見してしまう。

過失から故意へ

 『フェイブルマンズ』は後半で、やや唐突に学園青春ものになる。青年に成長したサミーが転校先の学校でいじめられたり、女の子と仲良くなったりするのだ。一見して、スピルバーグが何にピントを合わせようとしているのかわからない。フェイブルマン一家の家族ドラマは依然として続いているが、いまいち「スピルバーグが映画の才能をめくるめく開花させていく」感に乏しいのだ。

 しかしそれもまた、「フィルムの暴力性」を描くための念入りな準備だったことが後に判明する。

 終盤、サミーを終始いじめ続けてきたローガンという同級生の男が、サミーが彼を撮ったフィルムによって、信じられないほどのダメージを受けるのだ。この一連の流れには、スピルバーグ作品には珍しいある種の難解さがあり、複雑で、業が深い。スピルバーグらしからぬ、と言ってもよい。しかし彼は、明らかに“これ”を描きたかった。ミッツィの「ある真実」を暴いたのとは別の意味で、フィルムは恐ろしい凶器にもなりうるのだということを描きたかった。

 ちなみに、ミッツィの「ある真実」を写してしまったのはサミーの「過失」だが、ローガンに対する仕打ちは完全にサミーの「故意」である。つまりスピルバーグ(≒サミー)は、かなり若い頃から「映画の悪魔」と取引をしていた。フィルムに宿る悪魔的な力に早い段階で気付き、それを我が物にしていたのである。

 本作は、半世紀以上のキャリアを重ね老境に達したスピルバーグの、満を持した「告白」なのだろうか。生ぬるい「映画愛」なんぞで自分は映画を撮っていない、こちとら悪魔と契約して半世紀以上も修羅道をひた走ってるんだ――という開き直りなのか。いずれにしろ、フィルムの暴力性にスピルバーグがここまで自覚的であることを、ここまで直截に表現したという点において、『フェイブルマンズ』は驚きの1本だ。

 フィルムの暴力性の犠牲者となったミッツィとローガンのインパクトがあまりにも強すぎたためか、それだけでは良き読後感を望めないと判断した(と思われる)スピルバーグは、ラストにわかりやすく「映画っていいもんですね」的なエピソードを用意する。実在の映画人が登場し、若きスピルバーグを投影したサミー青年に映画のなんたるかを指南するのだ。

 ただ、このくだりはあまりにもとってつけた感が強い。典型的な「イイ話」すぎる。むしろスピルバーグの「お前ら、どうせこういうのが観たかったんだろ?」という「悪い笑い」すら目に浮かぶ。いや、スピルバーグ好きとしては、むしろぜひそうあってほしいのだが。

『フェイブルマンズ』
配給:東宝東和
監督・脚本:スティーヴン・スピルバーグ 脚本:トニー・クシュナー
出演:ミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、セス・ローゲン、ガブリエル・ラベル
原題:The Fabelmans 配給:東宝東和 上映時間:151分
2023年3月3日(金)より、全国公開!
© Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.

 

 

稲田豊史(編集者・ライター)

編集者/ライター。キネマ旬報社を経てフリー。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が大ヒット。他の著書に『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『オトメゴコロスタディーズ フィクションから学ぶ現代女子事情』(サイゾー)、『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)などがある。

いなだとよし

最終更新:2023/03/11 13:30
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