『どうする家康』で怪しい千代は、武田信玄に仕えた伝説の女忍者がモデル?
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信玄は甥を、甲賀望月氏に養子に出した
望月千代女を輩出したとされる一族の末裔の屋敷が、現在の滋賀県甲賀市甲南町竜法師にあります。「近江製剤株式会社」の旧社屋だったこの建物は通称「忍者屋敷」と呼ばれており、平屋のような外見でありながら、実は中二階と屋根裏部屋の三層になっているなど、多くの「からくり」が見られます。この屋敷は戦国時代ではなく、今から250年ほど前……つまり江戸時代中期に建てられたと考えられていますが、しかし望月家の子孫たちの間で「自分たちは忍びの名族である」という意識が受け継がれていなければ、こういう構造にはならず、保たれることもなかったでしょう。
江戸時代にはすでに、いわゆる忍者ブームが起きていました。史実はともかく、伊賀流忍者のリーダーとして服部半蔵正成が有名になったのもこの頃です。また、先ほどご紹介した『万川集海』も、江戸時代中期にあたる17世紀後半に成立した書物です。このような時代の空気の中で、伝説的な強さを誇った武田信玄などの武将の秘密を探ろうとする人々が当時現れ、その結果、「忍びの者」に注目が集まり、彼らの子孫たちも祖先の仕事に強い誇りを持つようになったといえるでしょう。そして、ただの空想に空想を重ねただけの“伝説”ではないと思わせる「何か」があったからこそ、忍者は一大ブームとなったのだと思われてなりません。
実際、武田信玄が自ら育成したとされる女忍者のリーダー・望月千代女には、単なる伝説の人物だと言い切るには情報がかなり多くあり、実在を完全に否定できるものではないとも思います。
望月千代女は、真田家を遠い親戚に持つ名族・望月家の出身で、近江国(現在の滋賀県)が本拠地だった甲賀望月氏の姫だとされます。甲賀望月氏は先祖代々、軍用馬を京の都やその周辺に卸すブローカーのような仕事をしており、「甲賀五十三家」と呼ばれる甲賀の忍びたちの筆頭格といえる家柄でもありました。
その千代女が結婚したとされるのが(望月家本家の)望月盛時という男性でした。しかし、彼は永禄4年(1561年)の「第四次・川中島の戦い」で討ち死にしてしまいます。そこで独り身となった千代に武田信玄が与えたミッションが、身体能力が高く、頭も切れる美少女たちを集め、歩き巫女の姿をした女忍者集団として育成することだったそうです。
そして信玄の甥にあたる信雅(信玄の同母弟・信繁の子)が当時、望月家に養子として出されており、この信雅=千代女の夫・望月盛時であるとの考えもあります。残念ながら信雅が戦死したのは天正3年(1575年)の「長篠の戦い」であるとされ、「第四次・川中島の戦い」の約14年も後にあたるため、別人であるとみるのが自然ですが、いずれにせよ信雅が望月家の養子になったという事実は、信玄が忍びの者と関係がある望月家と親戚関係になることを強く望んだと見ることができ、注目されるポイントです。
「怪しい存在」だった歩き巫女と、「忍び」の関係
信玄は諏訪大社の歩き巫女の存在に注目し、同社の御札を日本各地に売り歩いていた彼女たちなら怪しまれることなく日本各地に派遣でき、諜報活動などもできると考えたそうです。
ドラマの千代は、空誓上人(市川右團次さん)が家康による年貢の強制徴収に怒り、一揆を起こす決意を見せると、立ち上がって「みんな、仲間の門徒衆に触れ回りな! おのおの戦道具を持って寺に集まれと。進む者は往生極楽! 引く者は無間地獄よ!」と民衆を煽っていました。また、本證寺の屏風裏で、彼女が吉良義昭(矢島健一さん)に酒をつぎながら「本来、この三河国の主となるべきお方は吉良様でございますからねぇ」とおだて、松平昌久(角田晃広さん)と目を合わせて含み笑いをするシーンも印象的でしたね。夏目広次(甲本雅裕さん)の裏切りをそそのかす動きを見せる場面もありましたし、やはり千代は望月千代女をモデルとしたキャラクターで、武田信玄からの指示を受けて敵国である三河に内乱を生じさせ、弱体化させることで軍事侵略を容易にする密命を帯びていたという設定なのではないかと想像されます。
望月千代女および彼女が育成した女忍者たちが、ドラマの千代(たち)のように大活躍できたかは不明です。また、信頼できる同時代の史料を見る限り、伝道者の姿で各地を回った歩き巫女などが、実際に忍びの活動も兼任していたかどうかも不明です。ただ、各地を練り歩く伝道者に注目したのは信玄だけでありません。(これまた一説に忍びを使うのがうまかったとされる)真田家では、歩き巫女だけでなく、山伏や高野聖(こうやひじり、半僧半俗の下級僧)といったさまざまな宗教者の姿を借りた忍びの者を使っていたという話があることも知っておいてください。
『どうする家康』の千代は、巫女とはいいながら、外見、口調ともに遊女のような艶っぽさを持つ女性でした。実際の歩き巫女も、各種祈祷や死者の霊を呼び、生者と会話させる「口寄せ」などを行うだけでなく、歌や踊りを披露したり、遊女のような仕事もしていました。要するに、彼らは生きるためなら何でもしてしまう「怪しい存在」で、歩き巫女=忍びの者とはいえなくても、何らかの形で諜報活動に携わっている者が歩き巫女に変装して各国に侵入していた可能性は十分にあるでしょう。
ちなみに、望月千代女が忍者だとすれば甲賀(こうか)の忍者だったとみられますが、忍術には、現代でも有名な伊賀流・甲賀流の2つ以外にも数多くの流派……一説に49もの流派があったとされます。すべてが江戸時代以降に創作された伝説と断言することもできるでしょうが、戦国時代は大名の数だけ忍びの流派があったのではないかという気もする筆者でした。
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