『どうする家康』19歳のカリスマ・空誓上人を支えた“軍師”は本多正信?
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のちに家康とも親密になる19歳のカリスマ・空誓上人
空誓上人が住持(=住職)だった本證寺(ほんしょうじ)は、三河三カ寺の代表的存在でしたが、家康軍との激闘でダメージを受け、さらに終戦後には家康の命によって更地になるまで破壊されてしまいました。しかし、その後、本證寺は約300年ほどかけて現在の姿につながる形に復興を遂げていったようです。その本證寺には本多正信のお墓が現在もあり(彼の骨は東京・浅草の徳本寺の墓に眠っていますが)、正信への強い感謝が後世にも受け継がれていることがうかがえます。空誓上人は時には自ら陣頭に立つなど三河一向一揆を指揮しましたが、本多正信はその空誓上人のブレーンだったのではないでしょうか。
本多正信が一向宗側に付いたことははっきりしていますが、実際にどのような働きをしたのかは具体的にはわかっていません。ただ、一揆の勃発までは味方だった者たちと敵対して戦ったことは、大きな悲劇を生みました。武将としての能力や得意とする戦術など双方が把握しているため、余計に戦闘は激しくなり、想像以上の長期戦になってしまったのだと考えられます。
ドラマ第7回の終盤、一向宗の信徒たちから家康が取り囲まれ、命も危ういという状況があったと思いますが、さすがにあれはドラマならではの脚色にせよ、一揆の勃発から約1年後、永禄7年(1564年)1月11日の「上和田の戦い」において、家康が二発の銃弾で狙撃されるという事件が起きたくらいです。このとき家康は、身に着けていた鎧(おそらく例の金陀美具足)が硬かったので、なんとか命拾いしました。
しかし、それから1カ月ほど後の2月13日に上宮寺が兵を送り込んで岡崎城を攻撃したのを最後に、一揆の勢力は弱まり、家康は同月末には暴動を鎮圧することができたそうです。この終戦までの経緯も謎めいていますが、ドラマではこれをどう描くのでしょうか。
一揆鎮圧後の家康は、三河を比較的スムーズに統一することに成功しています。それは、領内にありながら治外法権地帯だった一向宗の寺や勢力を撃滅できたからだけでなく、一向宗に味方した武士たちが、家康の軍門に下っておとなしくなるか、あるいは追放されたり、逃走してくれたので、統治がやりやすくなったという側面もあったとみられます。
戦後、家康は離反した家臣や親族の“復帰”に対し、実に寛大な処置を取りましたが、それも家臣団の約半数が一向宗側に付いてしまったがゆえでした。厳罰で対処すると家臣の半分を失ってしまうわけですから、許さざるを得ないという現実があったのです。
この時、本多正信も赦免されたのですが、なぜか家康のもとから再度離反してしまっています。その後の約20年間、彼は松永久秀に仕官したり、放浪したりしていたとされますが、一向衆の信徒たちのネットワークを頼り、加賀国(現在の石川県)に移住、後には加賀一向一揆(長享2年・1488年ごろ~天正8年・1580年)を指導し、信長軍と激突したのでは……という仮説もあり、ドラマではこの説を取るのではないでしょうか。
第7回では、正信に家康が金策を相談するシーンで、信長の態度に不満を漏らす家康に対し正信が「それは殿も悪い。がつんと言ってやればよろしい」と言うと、家康はムキになって「お前はあの男と面と向かったことがないからそんなことが言えるんじゃ! ものすっごう怖いんじゃぞ!」などと反論していました。正信はそんな家康を「かわいいのう」と笑っていましたが、これはのちに正信自身が、加賀一向一揆において信長の怖さを知って震えあがるという展開への伏線のような気がします。
ところで、ドラマの本證寺は、沼地に囲まれた広大な敷地を誇り、そこでは積極的に商業なども行われ、岡崎の城下よりもよほど華やかで開けているというように描かれていました。実際に戦国時代の本證寺とその周辺はかなり栄えていたようです。このように寺を中心とした町のあり方を「寺内町」と呼び、お店だけでなく、学校や病院、宿屋まであったといいます。そこに戦国の世で傷つき、社会的に弱い立場に追いやられた人々が次々と流入したのでした。ドラマでも蓮如上人のひ孫が空誓上人だと説明されていましたが、カリスマの血縁者が住職になると、それをきっかけに寺とその周辺が急速に活気づくという現象があったようです。
三河の一向一揆の開戦時、史実の空誓上人はまだ19歳の若さで、彼が岡崎の本證寺の住職になってからわずか2年後でした。それでも岡崎領主の家康の家臣の半分をも自軍に取り込み、家康軍と1年にわたって激闘を繰り広げられるだけの人望が彼にはあったということです。
一揆の鎮圧後、空誓上人は、寺から7~8kmのところにある菅田和(現在の愛知県豊田市)の大きな洞窟で、20年以上も過ごし、不遇をかこったといわれますが、その後、なぜか唐突に家康と和解し、両者の間には交流どころか、信頼関係さえ生まれることになりました。かつて、命の取り合いをした敵と親密になるという戦国時代の生き方は、現代人にはなかなか理解できませんが、空誓上人という御仁にはそれほどのカリスマと魅力があったのかもしれませんね。
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