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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『どうする家康』いよいよ「家康」誕生! 由来、時期…謎多き元康から家康への改名

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

※劇中では主人公の名前はまだ「松平元康」ですが、本稿では「徳川家康」に統一しております。家康に限らず、本連載において、ドラマの登場人物の呼び方は、原則として読者にとってなじみの強い名称に統一します

 

『どうする家康』いよいよ「家康」誕生! 由来、時期…謎多き元康から家康への改名の画像1
千代(古川琴音) | ドラマ公式サイトより

 『どうする家康』の第6回「続・瀬名奪還作戦」は、想像通り、上ノ郷城攻めで忍者が大活躍する回でした。伊賀忍者の服部党だけでなく、甲賀忍者も参戦して手柄を奪い合うという内容だったのは、史実を考慮したものでしょうか。服部党の面々が戦死体に化けていたり、垂直の崖をクナイ(万能手裏剣)を突き立て這い登っていたりしたのは、いかにも漫画ちっくで笑ってしまいましたが……。

 ドラマは今後、女性のキャラクターも充実していきそうです。第6回で活躍した、退廃的な雰囲気の女大鼠(松本まりかさん)は個人的に好きなキャラになりそう。そして次回からは歩き巫女の千代(古川琴音さん)というキャラも新登場するようですね。これは武田信玄に仕えた伝説の女忍者といわれる望月千代女(もちづき・ちよめ)をモデルとした人物なのでしょうか。

 歩き巫女とは、お祓いや歌や踊りなどをして日銭を稼ぎつつ、全国を回っていたフリーランスの巫女なのですが、それは昼の顔で、夜は遊女稼業にいそしむなど、素性のはっきりしない、グレーな存在でした。その正体が女忍者=くのいちであったところでおかしくはありません。望月千代女は、そうした歩き巫女のグレーな特性を生かし、部下の女忍者たちを歩き巫女として全国に派遣し、信玄の隠密として使っていたそうです。ドラマに出てくる千代は髪型からして遊女っぽく、とても巫女には見えません。『どうする家康』は、本当に昭和の時代劇みたいに、セクシーくのいちが大活躍する内容になるのかもしれませんね。

 女性キャラといえば、回を重ねるごとにアクとクセが強くなっていく於大の方ですね。松嶋菜々子さんが演じていなければ、笑顔で厚かましいことをいう関西あたりのおばちゃんにしか見えないであろう於大の方の強引さには少々閉口してしまいました。ただ、於大の方の強い要望で上ノ郷城攻めをすることになった彼女の今の夫・久松俊勝(リリー・フランキーさん)はほとんど活躍しませんでしたが、史書の類いでも彼が武功をあげたという記述は見当たりません。にもかかわらず、史実の俊勝は家康から上ノ郷城を与えられており、ドラマのように於大の方に懇願され、家康が実母の願いを叶えた……という可能性も十分にありえる話だと思われます。

 個人的に興味深かったのは、一般的によく知られているとはいえない今川家の重臣・岡部元信(田中美央さん)が登場し、今川家への忠義と、氏真の人質への対応には心の底では同意できていないと見られる葛藤を演じて話題となったことです。元信は今川家が完全に没落した後は甲斐の武田家に仕え、後に家康の宿敵のような存在となって彼を何度も苦しめたことが知られているので、今後の登場もありそうです。

 さて、今回は家康の改名についてお話ししましょうか。本稿では読者にとってなじみの強い名称に統一する意図で「家康」と呼んでいますが、ドラマ上ではまだ「松平元康」を名乗っている段階ですね。次回の第7回「わしの家」でいよいよ家康に改名することになるようで、予告映像のセリフにあった「この三河をひとつの家だと考えておるんじゃ」というのが「家康」の由来とされることになりそうです。しかし実際には、元康から家康に改名した時期や理由、そしてその由来についてはっきりしたことはわかっていません。

 時期については、おおよそのことはわかっています。手紙や書類の署名の状況から、家康の嫡男・竹千代と信長の娘・徳姫の婚約が成立した永禄6年(1563年)の「6月から10月の間に、名を家康と改名」(国立公文書館のサイトより)したと考えられていますね。一方、家康の公式伝である『東照宮御実紀(以下、御実紀)』には、「君はこの年(※同書によると、永禄6年ではなく永禄4年に)お名前を家康と改められた」とあるだけです。つまり、同書が編纂された江戸時代後期の時点で、徳川家関係者の間ではすでに家康の改名時期についての正確な記録が失われていたことがわかります。改名理由も記されておらず、要するに改名の時期も理由も「よくわからない」のです。

 それでも、彼が「元」の文字を捨てた理由は、想像しやすいです。今川家からの決別を、内外、とりわけ当時の家康が新たな同盟関係を結ぶことになった織田家に対して宣言するためであったと見るのが正しいでしょう。元康の「元」の文字は、彼が元服した際、烏帽子親になってくれた今川義元から頂いたものでしたからね。余談ですが、二代将軍となる秀忠の「秀」の文字も、当時徳川家が仕えていた豊臣秀吉から頂いたものでしたが、豊臣家を滅ぼした後も秀忠は改名しておらず、名を頂いた主人との関係が終了したからといって、必ずしも名前=諱(いみな)を変えねばならないという風習はありませんでした。だからこそ家康が「諱」を変更した背景に、本人の強い意思があったのは間違いありません。それだけに、史料が残されていないのは残念この上ないですね。(1/2 P2はこちら

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