『どうする家康』は大河の伝統を覆す野心作に? 瀬名姫の設定における史実との違い
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
1月8日からは、待望の新大河ドラマ『どうする家康』の放送が始まります。「気弱なプリンス」として徳川家康を描くという方針自体は「なるほど」と思えたのですが、それを演じるのがスレンダーな松本潤さんというのが、自力ではフンドシもつけられないほど肥満した「狸親父・家康」のイメージとは正反対で、いったいどうなることか心配ではありました。しかし、予告映像で見る松本さんはなかなか立派な若武者ぶりで、いい意味で想像を裏切られた気がします。
ところが、第1回のタイトルが「どうする桶狭間」。「桶狭間」とは、永禄3年(1560年)5月19日の「桶狭間の戦い」のこと。駿河・遠江(現在の静岡県)の「太守」こと今川義元率いる大軍勢が、織田信長率いる精鋭隊の前に破れるという「まさか」の事件が起き、歴史の転換点となりました。
初回がいきなり「桶狭間の戦い」というのはあまりに唐突で、びっくりしたのは筆者だけではないでしょうが、脚本の古沢良太さんによると「波乱万丈で、ピンチピンチの連続の人生」のドラマとなるそうで、そうした特色が第1回から明らかになりそうです。通常の大河ドラマ、特に『篤姫』以降では「主人公の子供時代を(子役の俳優を使って)丁寧に描く」のが通例でしたが、今回はそういうわけではなさそうですね。
「桶狭間の戦い」の時、徳川家康は数えで19歳です。しかし、すでに6歳から13年間に及ぶ人質生活を送っている“プロの苦労人”ですし、16歳で最初の正室である瀬名姫と(今川家から絶対に断れない形で押し付けられて)結婚しているし、子どもまでいるヤングパパでもあります。
戦国時代の人生は、現代とは比べ物にならないスピード感で進んでいたとはいえ、初回から情報がてんこ盛り。はたして一般視聴者はついていけるのか……という不安がありますよね。徳川家康という人物は大河ドラマの常連といってもよい人物ですが、その人生が真正面から取り上げられることは、近年では珍しいからです。
脚本の古沢さんによると、歴史が好きな人も、そうではない人も楽しめる内容とのことですが、『どうする家康』は、時系列に沿って展開していく物語であることが多い通例の大河の伝統を覆し、事実を大幅にカットし、大きな事件と事件とを結び、必要とあらば、回想シーンで情報を補足する作りになるのかもしれません。
初回から「桶狭間の戦い」を描くということは、生母・於大の方と生き別れた3歳から、6歳以降の人質生活、瀬名姫との出会いと結婚、さらに一人の武将として軍功を挙げ始める10代後半までが一気に描かれる、あるいは大胆に省略されるということでしょう。若い人向けのドラマではよく見られる手法ですが、大河の“主要顧客層”である年配の方には、はたして受け入れられるのでしょうか。
いきなり「桶狭間の戦い」を扱うといっても、さすがに初回で、織田信長に奇襲され、今川義元が討ち取られるまでを(少なくとも具体的には)描ききるわけではないでしょう。織田軍に包囲されてしまっている味方の城・大高城(おおだかじょう)に、「兵糧を運び込め!」とのムチャぶりすぎる命令を受けてしまった家康が、「どうする」と悩んだあげく、アイデアをめぐらせ、なんとか兵糧を運び込むことに成功するというあたりまでが描かれるのでしょうか。
このとき、彼がまとっていたとされるのが、ドラマの予告編でも存在感のある、若き日の家康を象徴する鎧「金陀美具足(きんだみぐそく)」です。
ドラマの家康は今川家の人質生活におおむね満足しているようで、「金陀美具足」の黄金の輝きは、家康が過ごした幸せな日々の象徴なのかもしれません。しかし、家康の公式伝『東照宮御実紀』(以下、御実紀)によると、彼の人質生活は「険阻艱難(けんそかんなん、非常に険しい苦悩という意味)」そのものだったとか。
約13年もの今川家での人質生活が、実際はどういうものだったかはよくわかりません。しかし、義元が当主だった時代の今川家は、当時の日本有数の名家であり、財政も豊かで、文化水準が非常に高かったことが知られています。岡崎の小領主の息子に過ぎない家康にとっては、今川家での生活は、一種の留学のようなものであったとも想像されます。(1/2 P2はこちら)
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