『M-1』というフィールドで、ウエストランドの“悪口”漫才に私たちが笑ったものは
#お笑い #M-1グランプリ #タブーなきM-1 2022批評
“演芸”を「読む」こと
ただ、言うまでもないことだが、漫才を鑑賞する際に私たちが観ているのは“演芸”だ。芸人たちが表現しているのは思想でも文学でもアートでもなく、“演芸”である。そこで発せられる言葉をスタティック(静的)にただ読むだけでは、それは少なくとも“演芸”の鑑賞体験とは別物となる。
ウエストランドの“悪口”を静的に「読み」、それを「傷つけない笑い」(この概念自体に検討の余地がまだまだある)へのバックラッシュとして称賛したりまたは批判したりすることは、彼らの“演芸”としての表現のなかにある一部分を恣意的に切り取り、論者にとって都合の良い形で読み込むことにもなり得る。”演芸”を「舞台の上」に閉じ込めておくことが難しい現代の情報環境においては、このことはなおさらややこしい問題になる。
そして“演芸”は「客にウケる」ということを抜きにしては成立しない表現であるため、その自立性において脆弱な部分をどうしても持ってしまう。ただそういう脆弱さがあるからこそ、“演芸”のなかには、私たち観客の、ひいては社会という共同性そのものの現在地が映し出されてしまうようにも思えるのだ。“演芸”を「読む」際には、そういう側面や可能性の部分までをなんとか捉えてみたい。
今回のウエストランドのネタには、「M-1」を軸とした閉塞性のなかでの絶望的なもがきそのものを笑いにするような、ある意味で“限界”の笑いを見いだすことができるように感じた。たかがテレビの演芸コンテスト番組でしかないはずの「M-1」があまりにも強力なゲームとして機能してしまっていることを、芸人たちがそれに束縛されていることを、ウエストランドのネタはその言葉の内容自体ではなく、“出口のなさ”にうろたえ、暴発する井口の奇矯なもがきそのもので形にしてしまっていたように思う。
しかしこのような閉塞性の体現の先には、はたして何があるのだろうか。「M-1」はこのようなもがきすら回収しながら、その閉塞性をより完全なものにしていくのではないだろうか。
かつて島田紳助は「M-1」をいったん終了させる際、「視聴率もいいし、やめる必要はないといわれますが、一つの現象を起こしたときは10年でやめないと盛り下がっていってしまう。M-1という言葉がつまらん言葉になったらいかん」と語っていた。
紳助竜介の解散にしてもそうだが、紳助は良くも悪くもリフレッシュすることによる再生のダイナミズムを意識する、20世紀的な芸人だったように思う。一方で、おそらくは今後も持続していってしまうだろう『M-1』は、芸人たちを、そして“演芸”そのものを閉じ込めるゲームとしての特性を、より強固なものにしていってしまう予感が、私にはある。
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