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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『鎌倉殿』とは違う? 死後に神格化された義時・政子と、汚名をかぶった伊賀の方

政子が「伊賀の方による義時毒殺」をでっち上げた?

『鎌倉殿』とは違う? 死後に神格化された義時・政子と、汚名をかぶった伊賀の方の画像1
のえ(菊地凛子)と息子・北条政村(新原泰佑)|ドラマ公式サイトより

 『吾妻鏡』によると、伊賀の方は、実子・政村の執権就任と、娘婿で頼朝の遠縁にあたる一条実雅という公家を次の将軍に据えようと画策したとする2つの罪で捕縛され、伊豆で幽閉されました。

 もっともこの事件には別の見方があり、幕府の最高権力者である弟・義時を失い、その息子の泰時に権力が移ったことで自身の影響力の低下を憂えた政子が、泰時が重用し、影響力を増しつつあった政村と、その母方である伊賀家を取り潰そうとしたというのが実際のところではないかとも考えられています。事件当時、政子は68歳という高齢に達していました。それでも「自分はまだまだ幕府のために働ける!」とアピールするため、伊賀の方に架空の罪をなすりつけようとした疑いは濃厚といえるでしょう。史実の政子は、『鎌倉殿』のような“光のカリスマ”ではなかったと思われます。

 伊賀の方は生没年共に不詳とされていますが、義時が亡くなった元仁元年(1224年)6月から約半年後、『吾妻鏡』によると「元仁元年 十二月二十四日条」に、「右京兆(義時)の後室の禅尼(伊賀の方)が十二日以降、重病で危篤」とあるので、しばらくして病死したのでしょうか。北条の血生臭い歴史を考えると、単なる病死ではなく、政子の命令で殺害(毒殺?)でもされたかのように思えてしまいます。

 あるいは、政子が愛する弟・義時を伊賀の方に「殺された」と信じ込み、“復讐”した可能性もありますね。平均寿命が20代前半にとどまっていた鎌倉時代、当時68歳の政子は、現在の80歳前半くらいには相当するでしょう。つまり政子は当時の“超高齢者”で、そういう人々に時に起こりうる激しい思い込みをしてしまい、伊賀の方を恨んだのかもしれません。

 特に興味深いのは、「伊賀氏の変」という事件は、政子が伊賀の方を捕縛させたことによって起きたにもかかわらず、執権の北条泰時が「謀反は事実ではない」という立場を崩さず、伊賀の方の息子・政村(泰時にとっては異母弟)を重用し続けたことです。これはすなわち、「伊賀氏の変」は、権力を握り続けることに執着する“老害”政子によってでっち上げられたものにすぎないと、泰時ら次の世代の人々が見抜いていたということではないでしょうか。

 もっとも、泰時も伊賀の方を無実だと判断しているのなら、継母である彼女を助けてやればいいのですが、それはしていません。つまり泰時はまだそれができない立場にあった可能性があります。あるいはそこまでの情がなかったか、もしくは助ける前に、政子が伊賀の方を伊豆に流された後も執拗につけ狙い、殺してしまったとも考えられます。

 これが事実だとしたら、承久3年(1221年)6月の「承久の乱」開戦時には御家人たちを奮い立たせるメッセージを発するほどのカリスマのあった政子ですが、義時が亡くなった元仁元年(1224年)6月までの約3年という短期間で一気に老け込んでしまったといえるでしょう。

 そんな政子がついに亡くなったのは、義時が亡くなったおよそ1年後の嘉禄元年(1225年)7月11日のことでした。享年69歳。6月には大江広元が亡くなっており、頼朝時代を知る実力者2人を幕府は立て続けに失ったことになります。なお、「伊賀氏の変」によって、伊賀の方以外の伊賀家のすべての人々は、政子の死後、復権を遂げました。(2/3 P3はこちら

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