『鎌倉殿』の政子はどうなる? 歴史的「大演説」には“代読プレゼン”説と“同情アピール”説が…
#小池栄子 #鎌倉殿の13人 #大河ドラマ勝手に放送講義
『吾妻鏡』では政子は御家人に直接「演説」をしていない
『吾妻鏡』版では、演説内容がかなり“男性的”といえる論理性を備えているのが気になります。該当箇所に言葉を補いつつ意訳すると、
「私たちは朝廷の命じるまま平家と戦い、以来、常に朝廷のために働いてきた。(略)頼朝さまは、御家人の皆のために、よい政治をおこなってきた。かつて坂東の武士たちに課されていた大番と呼ばれる労力奉仕は3年もの長きにわたったが、頼朝さまのおかげで、期間が6カ月に短縮された。こういう頼朝さまのご恩を忘れたという者はすぐに出ていきなさい。頼朝さまをありがたいと思う者は一緒に朝廷と戦おうではないか」
義理人情に訴えつつも、労力奉仕の期間が頼朝の政治力で大幅に縮まったなどの具体的な“利益”の例を挙げることも忘れておらず、非常に効果的なプレゼンです。しかし、この内容を政子本人が演説したのなら、高貴な女性にはふさわしくない、アグレッシブすぎる行為だと見られかねず、世間にそう思われてはいけないという“配慮”が『吾妻鏡』の編纂時には働いたのかもしれません。
『承久記』版では代読ではなく、政子自らが声を上げ、武士たちに主張したという設定ですが、端的に言うと、「私の孤独をこれ以上、深めないでちょうだい」という感情論であり、『吾妻鏡』のビジネスマンのようなプレゼンとは質を異にしています。『承久記』版の演説内容の要約は以下のとおり。
「私は頼朝さまとの間に四人の子を授かった。しかし全員が私に先立って亡くなってしまった。後鳥羽上皇が討つべしとおっしゃる弟の義時を今、失えば、私は本当に一人になってしまう。だから弟を死なせるわけにはいかない」
『承久記』の政子は、夫や子供に先立たれた悲しい妻あるいは母としての自分を強調し、世間の男性の同情を買って、彼らの力にすがろうとしているかのようです。伝統的な意味で“女性的”といえる点は見逃せません。なんとなくですが、『鎌倉殿』の政子であれば、『吾妻鏡』より『承久記』寄りの演説になりそうですね。
なお、「演説」の語は、明治時代の福沢諭吉が『学問のすゝめ』で「スピーチ」の訳語として作成し、自ら実践して広めたことで世間に定着したという説があるため、政子の「演説」(もしくは自説を代読させ、披露した行為)は史実的にはありえないという指摘もあります。
ただ、政子は「実質的な四代鎌倉殿」と存命中から考えられていてもおかしくない存在ですし、そんなイレギュラーな女性だからこそ、名実ともに型破りなことをやってのけても許されるし、不自然ではない気がしてなりません。ドラマのように政子は自ら声を上げ、あるいは御簾の外にも出て、史実でも御家人たちに朗々と訴えかけたのではないでしょうか? 裏を返せば、鎌倉殿不在の幕府においては、それくらいインパクトのある行動を政子が行わねば、御家人たちはきっと気弱になって、後鳥羽上皇の権威に屈していたかもしれません。
「承久の乱」における京都側の敗因のひとつが、上皇の権威を高く見積もりすぎたことは指摘されていますが、「北条義時を討て」という院宣が鎌倉をパニックに陥れていたというのもおそらく事実です。しかし、『吾妻鏡』の記述によれば、政子の演説効果はその場にいた御家人たちだけでなく、噂で伝え聞いただけの地方の御家人たちにもかなりあったようで、最終的には鎌倉方の兵数は総勢19万にも膨れ上がりました。京都方はその圧倒的な数によって、あえなく押しつぶされてしまったのです。
もっとも、19万はかなり盛ったオーバーな数字と考えられ、実際は10分の1以下だったのでは、とする研究者もいますね。上皇方には、ドラマにも登場している三浦義村の弟・胤義が鎌倉を裏切って、京都方について戦っています。しかし、こういう寝返りは上皇たちが期待していたよりも大幅に少なかったのです。
朝廷のもうひとつの敗因としては、味方の足並みを揃えることができなかった点も指摘できるかもしれません。その兆候は、三寅が鎌倉に下向した直後の承久元年(1219年)7月に起こった事件に見られます。鎌倉幕府から京に出向し、代理守護として上皇に仕えていた源頼茂(みなもとのよりもち)が、「なぜか」上皇の命で西面の武士たち(=上皇が鎌倉に対抗するべく集めた御所内の武力勢力)から攻められ、討ち死にしたのです。源頼茂は御所内の仁寿殿に立てこもって戦ったので、御所の他の建物までが焼失する事態を招き、上皇を嘆かせました。
この事件をどのように解釈するかはさまざまだと思いますが、ひとつの印象として、京都方がまとまっていなかったように感じます。頼茂の事件が起きた際、すでに上皇と義時の間には深刻な不和が生じ始めていました。勝ち気な上皇なら、鎌倉との戦が将来あるかもしれないと考えていてもおかしくはなく、であるならば特に頼茂は手元に温存しておくべき人物です。鎌倉幕府からの出向者であるだけでなく、名のある武士・源頼政の孫にあたる頼茂こそ、本来ならば北条義時追討軍の先陣に立つべき存在だからです。上皇が頼茂を味方につけていれば、鎌倉を裏切って京都方につく武士たちも増えていたでしょう。しかし、その頼茂が(上皇の集めた)西面の武士たちの手で討たれたのなら、「もし幕府を見限って京都方についたとしても、理由をつけて自分も殺されるのではないか」と鎌倉の武士が訝んでも致し方ないでしょう。
なぜ源頼茂が粛清されねばならなかったかは歴史の謎であり、これを説明する定説はありません。頼茂が次の鎌倉殿になろうと画策していたことを後鳥羽上皇が咎めたという説もあれば、上皇が秘密裏に行っていた北条義時を呪詛する儀式を頼茂が知ってしまったからという説もあります。源頼茂が戦死した後、後鳥羽上皇は祈願所に使ったとされる最勝四天王院という寺をわざわざ潰させているという不可解な動きを見せており、何らかの裏の事情があったことは十分に推測できるのですが、それと頼茂との関係も謎です。ドラマにも源頼茂は登場しますが(井上ミョンジュさん)、この事件がどのように描かれるか楽しみですね。
京都方の事情をさらに説明すると、上皇の皇子である土御門上皇をはじめ、後鳥羽上皇に近い皇族にも鎌倉との戦に反対の姿勢を取った者がいたことや、他にも少なからぬ数の公卿たちが反戦派だったという事実があるというのも興味深いところです。
このように京都方にはさまざまな敗因があったと考えられますが、さらに付け加えるならば、史実でもかなり“オレ様”式のワガママ御仁だったらしい上皇のカリスマの乱れ、あるいは衰えも指摘できるかもしれません。たとえ、鎌倉方の兵力が実際には『吾妻鏡』がいうような19万に及んでおらず、その10分の1だったとしても、鎌倉から京都に向かって進軍するたびに兵の数は膨らんでいったでしょうし、人を巻き込むそのパワーの源が、鎌倉幕府の実質的な四代鎌倉殿・北条政子のカリスマにあったと考えるのは間違ってはいないと思われます。15世紀のフランスに現れ、屈強な男性たちを率いてイギリス軍に逆転勝利した「救国の乙女」ことジャンヌ・ダルクのように戦場に自ら立つことはなかったにせよ、史実の北条政子もジャンヌに負けない“ヒロイン力”を発揮していたのかもしれません。
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