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尼崎から歩みだし、刻んできた書き手としての足跡
趣味ではないのだ。だからと言って、物語というのは、書き手としても作り手としても、読んでもらい、観てもらわなければ始まらない。
もしかすると、私に対する需要は常にこれで終わりを迎えることになるかもしれない。その危機感が、どの作品に対しても、全力で取り組む姿勢を生み出してくれているのではないだろうか。結果的にそれで食べていければ、それに越したことはなく、物語を書きたければ、寝る間を惜しんで仕事しなくてはならないのは、何も変わらない。
好きなことを仕事として続けるということは、そういうことではないか。誰しもがやろうと思えばできることを、誰も真似できなくなるまで地道にやり続けるのだ。そんなに難しいことではない。ただやり続けることができるか、できないか。たったそれだけの差なのだ。
尼崎の小さな街で、私は何のツテも人脈もないところから、ずっと未来だけを見て、書き続けてきた。
そこには良いことばかりでは当然なく、諦めようと思ったことも数え切れないほどはあった。作品を書き続けても、反響どころか反応すら微塵もないのだ。
普通、そんな中で10数年も小説を書けるか。何の保証もなかったのだ。それでも、私は必死に扉をこじ開けて、道を開拓してきた。それが凄いとか偉くないとかはどうでも良くて、結果として、私が刻んできた足跡であることには間違いない。出会いの大切さも小説を描くことで学んできたし、世の中の広さだって知ることができた。
その上で、はっきりと思うのは、物語を生み出す力とスピードでは、もう誰にも私は負けないと言うことである。
小説を純文学という表現のみで考えた場合、学のある書き手の方が上に決まっている。だが経験として考えた場合、学よりも経験が上回ることができるのが、物語を生み出す力なのだ。
自慢じゃないが、私は物を書くが上で、これまで1円の取材費すらもらったことがない。それは経費をかけずとも物語を生み出せる経験を備えているからだ。余談だが、その観点から言えば、恋愛小説だって立派なのが書けるぞ……。
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