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日刊サイゾー トップ > カルチャー > 映画  > 新海誠監督の恋愛観とフェチズム

『すずめの戸締まり』で新海誠監督の恋愛観とフェチズムはどう変わったか?

2人が惹かれ合う理由が確かにある

 本編を思い返してみれば、鈴芽はイケメンの草太に一目惚れをしただけではない、彼と惹かれ合う理由が確かにある、とも思える。例えば、教員採用試験をすっぽかした草太は友人の芹澤朋也に「あいつは自分の扱いが雑なんだよ」と言われ、鈴芽は震災を経験したためでもあるのか「生きるか死ぬかなんてどうせ運」と言っていたこともあった。2人は共に「自分を大切にしていない」人物なのだ。

 鈴芽が立ち入り禁止の看板の先に行くなどの危険な行為をしているのも、震災で「自分が生き残ってしまった」サバイバーズ・ギルトを感じていたからではないか。草太は教師だけでなく、それだけでは食べていくことができない閉じ師の仕事も両方やると言っていたが、それも自分を大切していない証拠だろう。

 だからこそ、鈴芽の「草太さんがいない世界が、私は怖い」、草太の「死ぬのが怖い、もっと生きたい!」というセリフは呼応しているし、そんな2人が共に生きようとするのは必然性がある。個人的には、それでも鈴芽と草太は恋愛を匂わせず、あくまで戦友として描いても良かったのではないか、と考えたこともあったが、お互いに戦友と思うことと恋愛感情に発展することは矛盾しないので、やはり「これでいい」と思えたのだ。

 そして、Twitterでは「草鈴」または「鈴草」と銘打たれた、2人のその後を妄想する愛に溢れたファンアートや二次創作の漫画がたくさん投稿されている。こんなにも愛される「この後にラブラブになってほしい」関係性を提示できているのだから、とやかく言うのも野暮というものだろう。この反応を見て、筆者も「恋愛を描いてくれて良かった」と心から思えたのだから。

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