『鎌倉殿』最大の悲劇・実朝暗殺がついに… 史実での黒幕は北条義時?
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『鎌倉殿の13人』第43回「資格と死角」は、興味深い内容でした。公暁(こうぎょう)を演じている寛一郎さんは、上総広常役で鮮烈な印象を残した佐藤浩市さんのご長男だそうですが、暗い情熱を宿した雰囲気が、史実の公暁のイメージと重なるところがあり、良いキャスティングだと感じました。残念ながら、公暁は実朝暗殺を遂げた後に殺害されることになるので、寛一郎さんの出番ももうすぐ終わってしまいそうですが……。
今回は第43回の内容を振り返りつつ、次の第44回「審判の日」で描かれるであろう、公暁による源実朝暗殺事件についてお話ししたいと思います。
第43回では、政子(小池栄子さん)と実朝(柿澤勇人さん)母子の宿願であった親王の鎌倉殿就任が実現しそうになるというところまでお話が進みました。実朝の名代として京都に赴いた政子が後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子(シルビア・グラブさん)と会談するシーンは、政子の成長も垣間見えましたね。かつて丹後局(鈴木京香さん)と対面した際は、政子を「東夷(あずまえびす=田舎者)」扱いする丹後局の“マウンティング”に何も言い返せませんでしたが、兼子とは対等に渡り合っていたばかりか、機嫌をうまく取って、頼仁親王を実朝の後継者に迎えるという政子の要望を通していました。
政子を気に入った様子の兼子は「京ではあなたのことをとやかく言う者がおるのよ。稀代の悪女とか、きっと鬼のような面相に違いないって。でも私は言ったんですよ。政子殿には政子殿の考え、立場があったに違いないと」「どこが鬼ですか。むしろ東大寺の大仏様に似ておられるわ」と言っていましたが、兼子にそう言わせたところにも三谷幸喜さんの政子びいきが感じられ、面白かったです。史実の兼子と政子も気が合ったらしく、政子に従三位(じゅさんみ)という高い官位が与えられたのは、兼子が後鳥羽上皇に働きかけた結果といわれています。
ちなみに、『鎌倉殿』では後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王が次の鎌倉殿の候補として言及されていましたが、史料上では、関東側の『吾妻鏡』、京都側の『愚管抄』のどちらにもそこまで具体的な記述はなく、史実ではあくまで「後鳥羽上皇の皇子の誰かに関東下向してもらう話を進める」程度の合意でしかなかったようですね。
幕府・朝廷の実力者のほぼ全員が大いに乗り気だった親王将軍計画ですが、頓挫してしまったのは、その計画に異を唱えていた公暁(と協力者)が思わぬ大事件を起こしてしまったからです。つまり、公暁が三代鎌倉殿である源実朝を公の場で堂々と暗殺したことが大問題となったからでした。
歴史に悪名を残した公暁がどういう人物だったかについて、鎌倉幕府側にとって都合の悪いことはできるかぎり抹消するというスタンスの『吾妻鏡』からは、ほとんど情報を得られません。それでも彼の家族情報や略歴については知ることができます。公暁は正治2年(1200年)生まれで、幼名は善哉(ぜんざい)。父は源頼家で、母については諸説あるものの、『吾妻鏡』では辻殿(つじどの)と呼ばれる頼家の正室です(ドラマでは北香那さん演じる「つつじ」)。後見人にあたる乳母夫は有力者である御家人・三浦義村だったので、本来ならば、三代鎌倉殿は公暁で決定したも同然でした。
しかし、5歳にして彼の運命は暗転してしまいます。北条家の刺客に父を殺された公暁は、その数年後に叔父である実朝の猶子となったあと、12歳のときに鶴岡八幡宮寺(明治時代に「神仏分離」が行われる以前の鶴岡八幡宮の正式名称)で出家し、京都に送られました。その後、建保5年(1217年)に18歳で鎌倉へ帰還するまでの日々を、彼は京都で仏道の修行に励んで過ごしたようです。
鎌倉に戻れたのは、鶴岡八幡宮寺の三代別当(=代表者)の定暁の急逝を受け、北条政子が、公暁にその跡を継がせてやろうと願ったからでした。公暁は鎌倉に帰ると、ドラマのように鶴岡八幡宮寺での「千日参籠」を開始しています。なお、『鎌倉殿』の歴史考証を担当する坂井孝一氏は、ドラマとは違い、この時点で親王将軍の話は具体的には決まっていなかったと考えているようです。また、ドラマのように何度も千日参籠を最初からやり直したという話も史料には見当たりません。史実の公暁は、この長い儀式の最中に親王将軍の話が進んでいることを寺の稚児たちを通じて聞き知ったのでしょう。
ドラマでも千日参籠について「出入りできるのは世話役の稚児のみ」で、参籠者が勝手に八幡宮を出たり、人と会ってはいけないと説明されていましたが、ドラマとは違って史実の公暁は、安易に八幡宮寺の外に出たり、外部の者と接触したりすることは許されなかったはずです。長期間の参籠中ということは、密室に閉じ込められているも同じです。この密室の中で「あなたの父・頼家公は実朝と北条義時に暗殺された」「親の敵を討って、堂々と鎌倉殿におなりなさい」などと稚児たちを通じて延々と吹き込めば、彼を“洗脳”するなど容易かったでしょう。ドラマでは三浦義村(山本耕史さん)から直接、実に言葉巧みに焚きつけられていましたが、実際には公暁はそのような刷り込みによって憎悪を膨らませていったのではないかとも考えることができます。
筆者の想像から、史実に話を戻しましょう。千日参籠を終えた翌年、つまり建保6年(1218年)12月5日にも公暁は鶴岡八幡宮寺にこもって、いくつかの儀式を行いました。彼は千日参籠の間に伸びてしまった髪を下ろさなかったことで、人々に怪しまれたといいます(『吾妻鏡』)。つまり、公暁が鎌倉殿の座を狙っている――還俗した時に一日も早く、烏帽子や冠の類を頭に掲げることができるよう、髪の毛を剃らないのだと鎌倉の人々に疑われていたというのです。また、公暁は伊勢神宮などにも使節を派遣していますが、そのいずれもが、実朝に対する呪詛や、暗殺計画を成功させるための祈祷であったと考えられています。
ドラマでは実朝が左大将に任じられる話が出ていましたが(建保6年)、その後に右大将というさらに高い官職を与えられた実朝は、翌年の建保7年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮寺の御神体の前で、お祝いの儀式を行うことになりました。儀式当日は、2尺(約60センチ)もの大雪が降り積もっていたそうです。夕方6時ごろから儀式は行われ、幕府の要人たちと京都から派遣された公卿たちが付き従う中、武装を許されたのは八幡宮寺の外にいる数千もの兵たちのみでした。
長い儀式が終わったのは深夜です。朝廷における最高の礼装・束帯をまとった実朝が儀式を終えて長い石段を下り始めたとき、頭巾をかぶった公暁が襲いかかりました。公暁はまず束帯の一部を踏みつけて実朝を転倒させると、「親の敵はかく討つぞ」と叫んで、実朝の頭部を攻撃。次いで彼の首を切り落としています(『愚管抄』)。頭部を切りつけても、人は即死しません。それなのに頭(=顔)を最初に狙ったという記述からは、公暁の強い憎悪がうかがえます。
『吾妻鏡』によれば、暗殺に成功した公暁は、石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨(あじゃり)公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と高々と宣言したとされていますが、『愚管抄』では、公暁はそのような宣言はしておらず、鳥居の外に控えていた兵たちは、殺害現場から逃げてきた人々を見てようやく事件が起きたことを知ったとされています。いずれにせよ、公暁は実朝暗殺に成功したあと、首を持ち去って姿を消してしまいました。
頼家が亡くなった時、実朝はわずか12歳でした。実朝が「親の敵」であるはずがなく、何者かの手で公暁の耳には事実とは異なる情報が吹き込まれていたと考えられます。あるいは、鎌倉殿になりたいという野心を膨張させていた彼には、真実などどうでもよかったのでしょうか。(1/2 P2はこちら)
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