『鎌倉殿』では見せない実朝の「スピリチュアル」な一面と、渡宋を熱望した理由
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実朝の「霊能力者」な一面と、渡宋にこだわった理由
『吾妻鏡』において、陳和卿は「これ東大寺の大仏を造れる宋人なり」として紹介されていますが、実際の彼は職人というより、職人たちを率いて、主に宗教建築に取り組む建築家もしくはプロデューサー的存在でした。その技量は、天竺(インド)において工芸・建築を司る神「毘首羯摩(びしゅかつま)」に喩えられるほどだったとか。
建保4年(1216年)、そんな陳和卿が鎌倉まで実朝のことをわざわざ訪ねてきたときに起きた不思議な出来事は、『吾妻鏡』に詳しく描かれています。陳和卿は実朝に対面すると「当将軍に於いては、権化の再誕なり」といって、滂沱の涙を流しました。陳和卿は、実朝の前世が宋の阿育王寺(現在の中国・浙江省寧波市)の高僧であり、自分(の前世)はあなたの弟子だったと主張し、実朝もそれに応えるように、「建暦元年(1211年)6月3日の丑の刻(午前2時)」という具体的な日時を挙げて、「私もあなたと同じ内容の夢を見ていたのだが、これまで誰にも言ったことはなかった」と驚愕の発言をしています。
現代人には実に怪しいやり取りのように思えますが、『吾妻鏡』には頻繁に「夢告(=正夢)」で未来を予言し、それを的中させる霊能力者・実朝の姿が登場しています。『鎌倉殿』ではおそらく意図的に実朝のスピリチュアルな側面は描かれていませんが、実朝の予知能力は「和田合戦」についても発揮されており、戦の約1カ月前の時点で、実朝は偶然見かけた二人の武士が近い将来、敵と味方に分かれ、両名とも戦死するだろうと予言し、的中させています。『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月7日の記録です。
実朝の家集(=和歌の作品集)として知られる『金槐和歌集』も、都の貴族のように花鳥風月を詠んだ作にまじって、龍神に雨を止めてくださいと祈って成功したときの歌や、神仏に懺悔したときの歌など、スピリチュアルな内容の歌も少なからず収録されているのです。
そういう内面を持つ実朝でしたから、陳和卿という“良き理解者”を得て、前世の自分が暮らしていた宋の阿育王寺に行ってみたいと思い立ったとしてもおかしくはありません(阿育王=仏教を保護したことで有名なインド・マウリア朝のアショーカ王)。
こうして実朝は、広元や義時の制止も聞かず、宋に渡航するための巨大な船舶を陳和卿の手で造らせることにしました。予告映像を見るかぎり、ドラマでは職人キャラの八田知家(市原隼人さん)が計画に加わっている様子ですが、史実でも腕のある御家人たちも造船に協力していたかもしれませんね。
実朝は渡宋にあたって同行者60人を選出しましたが、こうした“派閥形勢”は、第二代執権として鎌倉幕府の権力を掌握しつつあった義時への反抗の表れだというようにしばしば語られています。『鎌倉殿』の歴史考証を担当している坂井孝一氏も、陳和卿と夢のお告げについて語り合ったのは実朝の「政治的パフォーマンス」として考えているようですから、『鎌倉殿』も実朝による渡宋計画のことを、実朝と義時の不仲の象徴として描くような気がします。
史料を丹念に読み込んだ毛利豊史氏による論文『幻の渡宋計画─実朝と陳和卿』では、実朝が自ら渡宋し、阿育王寺に行くことにこだわった理由として、同寺に保管されているお釈迦さまのお骨、つまり「仏舎利」の一部を自らの手で鎌倉に持ち帰ることで幕府の権威をさらに高める狙いがあったのではと推察しています。
当時、仏舎利は単なる「お釈迦さまの遺骨」であることを超えて、持ち主の運命の吉凶を体現し、増えたり減ったりするものだと考えられていたそうです。霊的な存在である仏舎利は、それ自体が信仰の対象ですらありました。仏舎利は寺院が秘蔵するものだけにとどまらず、後白河院や九条兼実といった権力者、そして実朝の父の頼朝なども個人で所有していたことが知られており、仏舎利に彼らは守護されていたという考えも当時はありました。
頼朝が持っていたなら、それを頼家や実朝は受け継げなかったのか?と思ってしまいますが、おそらく頼朝が亡くなった時、遺骨と共に仏舎利も埋葬されたのでしょう。
しかし、陳和卿と会う前に、実朝はすでに仏舎利を所有していたこともわかっています。建暦2年(1212年)、実朝は、自分の祈祷僧にしてメンターでもあった栄西から仏舎利三粒を譲り受けたという記録が『吾妻鏡』にはあります(ちなみに栄西も実朝の霊的能力を高く評価し、彼を『西遊記』で有名な玄奘三蔵法師の生まれ変わりだと信じていたそうです)。
ですから、三代鎌倉殿であると同時に宗教的な存在でもあった実朝が、師匠である栄西のように、宋まで出向いて仏舎利を直接譲り受けたいと願っても不思議ではないわけです。
実朝は「和田合戦」の後、治世を安定させるべく世継ぎをもうけるべきと大江広元から進言されていますが、この時、「源氏の正統この時に縮まり終はんぬ。子孫敢へてこれを相継ぐべからず」(『吾妻鏡』)という予言をしています。「自分には子供を作ることができないから、父・頼朝以来の源氏将軍の正統は終わるだろう。遠縁の源氏の子孫を連れてきて継承させることもしてはならない」と訳せる意味深な言葉でした。
先述の毛利氏の仮説のように、実朝の渡宋計画は仏舎利獲得計画だったと考えるのであれば、(理由は明らかではないにせよ)子供が作れない代わりに、頼朝らとは違う形で鎌倉幕府に貢献しておきたいと願い、その思いが彼の強引な渡宋計画として表れたとも考えられるでしょう。
『吾妻鏡』によれば、義時は実朝の渡宋計画に反対したとされますが、読者はこれを妥当と取るでしょうか。それとも意外と取るでしょうか。よく言われるように実朝との関係が本当に悪化していたのなら、義時はむしろ賛成していたかもしれません。実朝が鎌倉から長期間いなくなってくれるのなら、そのほうが好都合だからです。
いずれにせよ、渡宋計画は実現することはありませんでした。陳和卿が製造していた「唐船」はいちおう完成はしています。しかし、建保5年(1217年)4月17日、由比ヶ浜で進水式を執り行った際、数百人が見守る中、まともに進水できぬままに船は座礁、その後も浜辺で朽ち果てていく巨体を晒し続けるという、実に不名誉な結末となったのです。
結末だけを見れば、陳和卿のやったことは、実朝を焚き付け、多額の費用を投じさせたにもかかわらず、結果的に実朝の夢を潰し、あまつさえその権勢に傷までつけたわけで、陳和卿は(京都からの?)刺客だったと考えられなくもありません。なにより彼の「その後」を語る史料はなく、義時の手で殺されてしまったのではという説もあり、非常に物騒です……。
ドラマでは実朝と陳和卿の語り合いや渡宋計画はどのように描かれるのでしょうか。実朝と義時の関係がどうなっていくかも併せて注目したいと思います。
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