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日刊サイゾー トップ > エンタメ  > キャイ~ンとお笑い界のifを考える

キャイ~ンはなぜ『めちゃイケ』レギュラーのオファーを断ったか お笑い界のifがそこにある?

伝説のラジオ『MEGAうま』の意義を改めて見直す

 衝突が続いたキャイ~ンと当時のマネジャー・矢島さん。そんななか、矢島さんはある仕事を持ってきた。

「この仕事はやったほうがいいと思う。将来、天野がMCになるときにきっと役に立つと思う」(矢島さん)

 彼が力説しながらプッシュしたのは、月~木曜の夜のラジオ帯番組『キャイ~ン天野ひろゆきのMEGAうま! ラジオバーガー!!』(ニッポン放送)だった。

 天野が『MEGAうま』を担当して以降、キャイ~ンは躍進。2人をMCに置く番組が増えていき、コンビとして確実にステップアップを果たした……と、『アンタウォッチマン』はまとめている。

『ナインティナインのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)リスナーにとっても、おなじみの番組だ。実は、健闘むなしく『MEGAうま』は7カ月(95年5~11月)で打ち切りとなってしまった。最終回ではウドから届いた音声メッセージを聴いた天野が、思わず号泣。以降、このくだりをナイナイは執拗にいじり続け、さらに天野の号泣場面をANNで繰り返し流したため、結果的に『MEGAうま』は別の意味で伝説の番組となってしまっている。

 また、96年2月放送『伊集院光のUP’S 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ)にゲスト出演した天野は、ニッポン放送と確執のある伊集院とともに、当時お台場にあったニッポン放送へと馳せ参じ、新社屋にウンコを投げつけるというひどい内容のロケも行っている。

 これらのエピソードから、今となっては短命で終わったことばかり語られがちな『MEGAうま』。しかし、その価値が改めて見直されるような『アンタウォッチマン』の構成は新鮮でもあり、素敵だった。

 関根勤はキャイ~ンと矢島さんの関係について、こうコメントしている。

「相当、(キャイ~ンが)好きだったんじゃないかなあ。手応えがあったんじゃない? 浅井企画でいえば、“第2のコント55号”。僕と小堺君はピンだったから、コンビで売れたっていうことでは第2のコント55号なんですよ。浅井企画を背負っていくっていう」(関根)

多忙な時期に、“3人目”のキャイ~ンを失った

「ある日、ロケバスの前方から矢島さんの咳が聞こえた。あきらかに、おかしな音だった。病院での検査の結果、がんだった」(天野)

 98年、矢島さんは喉頭がんにより48歳でこの世を去った。コサキンのラジオではその事実について一切触れられておらず、リスナーだった筆者もこの事実については今回の放送で初めて知った。

 また、キャイ~ンからすると98年はポケビ・ブラビがブレイクする時期にあたる。あれだけハードな仕事をこなしていた裏では、“3人目のキャイ~ン”とも呼べる存在を失くしていたのだと思うとつらい。

「最後の最後まで、矢島さんは自分の命よりキャイ~ンのことを大切に考えてくれていました」(ウド)

「あれだけ生意気なことを言ってたのに、本当によくぞ大きな愛で包んでくれたと思う」(天野)

 矢島さんが生きていれば、今年で72歳になるそうだ。

柴田 「(矢島さんが生きていたら)今日も3人で来てた可能性、あったんですかね?」

天野 「全然、あるでしょう!」

 矢島さんがご健在だったら、キャイ~ンの現状は少し違ったものになっていた? なんて思いも、ほんの少しよぎってしまった。振り返ると、矢島さんが持ってくる仕事はビッグな番組が多かった。キャイ~ンと矢島さんの三人四脚は、幸せなトライアングルだったのだろう。

 

寺西ジャジューカ(芸能・テレビウォッチャー)

1978年生まれ。得意分野は、芸能、音楽、格闘技、(昔の)プロレス系。『証言UWF』(宝島社)に執筆。

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最終更新:2022/10/26 07:00
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