『耳をすませば』懐疑的なファンにも観てほしい「大アリ」な実写映画版である理由
#ヒナタカ
平川監督の作家性もプラスに
本作の監督・脚本を手がけたのは平川雄一朗。筆者個人は正直に申し上げると、これまでの平川監督作を良いと思ったことがほとんどない。具体的な作品名は名誉のためにあげないでおくが、セリフが大仰かつ不自然であったり、演出や音楽の使い方が短絡的だったり、原作の再構成の仕方が納得できなかったり、それどころか雑なダイジェストに思えたこともあるなど、どうしても否定的な感想を持たざるを得ないものばかりだったのだ。
だが、今回の実写映画版『耳をすませば』は、前述したような原作を相対化するような構造がクレバーであるし、大人になってからの現実を見せる作劇は良い意味で容赦がなく、安易な解決方法にも頼らない誠実さを十分に感じさせた。そして、平川監督のクセも、今回は作品にとって十分にプラスになっていたように思う。
例えば、清野菜名演じる大人の雫が「10年やってきて何者でもなくて、どうしようって相談したい相手は遠くにいて会いたい時に会えない、わかっているけどわからないんだよ、自分がどうすればいいか!」と、長いセリフを口にするシーンがある。これを予告編で聞いた時は「これこそセリフがわざとらしい説明ばかりになる平川監督イズムだな」と思ってガッカリしていたのだが、これが本編を観てみると違和感がなく、しっかり胸を打つものになっていたので驚いた。
なぜなら、そこに至るまで、社会人として壁にぶつかり、聖司にも会えず、自分の持つ夢にどう向き合えばいいのかわからなくなった雫の姿が丹念に描かれた上での、「ついに親友2人に自分の気持ちを正直に洗いざらいぶちまける」というシーンであるからだ。つまりは、説明的なセリフになってしまいがちな平川監督の“らしさ”が、ちゃんと重要なシーンでプラスに働いているということなのだ。
また、少し大仰に感じてしまう演出は、後述する中学生時代のパートでいくつか観られたものの、それも「登場人物の感情が豊かに表現されていた漫画およびアニメ版を、実写化するんだったらこうなるんだ」と十分に納得できるものになっていた。平川監督のクセ、いや作家性が、今まででもっとも良い方向に働いた内容と言える。
改変も存分にアリ
今回の実写映画版の設定のいくつかは、漫画およびアニメ版から改変されている。改変そのものを拒むファンも多いだろうが、筆者個人はいずれも意義のあるものとして納得ができた。
例えば、聖司の夢はアニメ版ではバイオリン作りの職人(漫画では絵描き)だったが、今回の実写映画版の聖司はチェロ奏者になっている。松坂桃李がチェロを弾く様そのものが「絵」になっているし、その演奏と並行する仲間たちとのコミュニケーションも、編集者としての仕事も作家としての夢もうまくいかない雫との対比になっていて良かったと思う。
そして、アニメ版における主題歌『カントリーロード』は『耳をすませば』の代名詞と言っても過言ではないが、今回は『翼をください』に変更されている。前者は故郷を思うノスタルジーを喚起させるような楽曲ではあるが、後者は「子供の頃から持ち続けている夢」を歌った内容で、今回の物語に存分にマッチして(あるいは過酷な現実を相対的に際立たせて)いたので、やはり存分にアリ。杏の歌唱も見事だった。
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事