『耳をすませば』懐疑的なファンにも観てほしい「大アリ」な実写映画版である理由
#ヒナタカ
10月14日より『耳をすませば』が公開されている。
原作とされているのは、1989年連載の柊あおいによる漫画。そして、多くのファンを持つ、1995年のスタジオジブリによるアニメ映画も、強く意識した作品であることは間違いない。
今回の実写映画版は「主人公2人が大人になった、10年後のオリジナルストーリー」となっている。その企画そのものに懐疑的、いや怒っていたり、もしくは「どうせダメだろう」とたかを括ってる『耳をすませば』ファンも多いのではないだろうか。
批判も見込んだプロデューサーの責任感と熱意
だが、そのように感じている人こそ、まずは以下の、西麻美プロデューサーのメッセージを読んでみてほしい(一部抜粋)。
※※引用※※
映画製作を担う仕事に就き、最初に思ったのが「自分の思う『耳をすませば』を形にしてみたい!」というなんとも無謀なことでした。あの大傑作です。超傑作です。だれも触れてはならない作品です。でも、挑戦してみたい。新しい雫と聖司に会ってみたい、その一心でここまで来ました。
皆様の中には「何をしてくれるんだ」とお怒りの方もいらっしゃるでしょう。
分かります、私も一ファンですから。
ですが、もし少しでも興味を持っていただけるなら、雫と聖司の夢の続きを覗いてみてもらいたいです。もちろんこれが正解かは分かりません。それでも皆様と同じく『耳をすませば』が大好きな人間が、心を込めて作った”ひとつの形”です。
※※引用ここまで※※
「無謀なこと」「だれも触れてはならない」「『何をしてくれるんだ』とお怒りの方もいらっしゃるでしょう」といった言葉は重い。だからこそ、それほどの責任感を持って企画に挑むという熱意が、この文章から大いに伝わるはずだ。
そして、筆者個人の実写映画版『耳をすませば』の印象を申し上げれば、意外に、という言葉を使うのも申し訳ないほどに、その責任感と熱意が確かに結実した、本当に良くできた作品だった。
もちろん完璧な作品とは言わないし、『耳をすませば』に思い入れが強い人は少なからず文句も出てくるだろうが、一方で「ここまで真摯にやってくれたら文句ばかりを言ってられない」と思う方もまた多いのではないだろうが。
ここでは、いかに「アリ」にするバランスで上手く実写映画化できていたかを、大きなネタバレを避けつつ解説していこう。
夢を「まだ叶えられていない」苦しみを描く
今回の実写映画版『耳をすませば』では、原作漫画およびアニメ版でも描かれた中学生時代と、それから10年後の大人時代が並行して描かれる構成になっている。その大人時代において、天沢聖司(松坂桃李)はイタリアでチェロ奏者として日々鍛錬し、月島雫(清野菜名)は編集者として出版社で働きながら作家になる夢を追い続けていた。
まず挑戦的で、かつ成功しているのは、その大人になった雫の「10年経っても(作家になる)夢を叶えられず、何者にもなれなかった」苦しみを描いていることだ。例えばアニメ版において、雫は期間を見定めて小説を完成させ、それを読んだ聖司のおじいさんから、作品および雫の「これから」の可能性や未来を肯定する優しい言葉をかけられていた。それを鑑みると、今回の「時間をかけても夢には到達できない」現実が、さらに相対的に残酷なまでに際立ってくる。
それを持ってして、本作は「大人になって変わってしまった夢への向き合い方」という普遍的なテーマについて、人によっては福音にもなるであろう、ひとつの尊い「答え」を示してくれた。そこにこそ「10年後の物語」の意義があり、それは恋だけでなく夢にまつわる事柄を描いてきた『耳をすませば』の精神を汲み取ったものだと感服したのだ。
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