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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 圧倒的クリエイティビティ
連載「クリティカル・クリティーク VOL.7」

戦慄かなの 「かわいい」の機微を表現する圧倒的クリエイティビティ

戦慄かなのが細分化する「可愛い」の定義。

 以前から水曜日のカンパネラを好んで聴いていたという彼女は、自らケンモチヒデフミにコンタクトをとり、その後も佐々木喫茶やRIKEなどのトラックメイカー/プロデューサー、MVに至っても水曜日のカンパネラやxiangyuらケンモチヒデフミ組の映像作品でおなじみの渡邊直監督とタッグを組み、壮大なクリエイティブを追求する。しかし興味深いのは、音源も映像もプロの作家にお任せするようになったからといってfemme fataleや戦慄かなのソロが「請け負いアイドル」になり下がったわけではないということだ。むしろ、彼女の中でますます閃きつつあるイマジネーションを形にするためには、外部のプロフェッショナルの力を借りなければいけなかった、という方が正しいだろう。

 そういったインディペンデントなアプローチは、巨大資本でグローバルを席巻するK-POPアイドルに対するカウンターにも映る。スケールで太刀打ちできない国内アイドルが選択する道として、正しい方法に違いない。戦慄かなのは、自らの中にある明確な理想を具現化するために、頓知気さきなや数々のクリエイターを巻き込んで果てしない野望を実現しようとしているのだ。

 果たして、その野望とは何だろうか?

 戦慄かなのは、「可愛い」の分節化を試みているのではないだろうか。2022年の現在、「可愛い」は、それが指し示す概念を拡大させた結果ビッグワードと化している。もはや日本語においてほとんどの事象が「可愛い」で形容される今、「可愛い」という言葉が持つ意味内容の肥大化は、同時に言語コミュニケーションにおいてのハイコンテクストな共通認識を私たちに強いている。あれも可愛い、これも可愛い――それら「可愛い」の背景にあるわずかな「華美さ」「狡猾さ」「高貴さ」「グロテスクさ」……といった“違い”の見えにくさ。戦慄かなのの作品は、それら一つひとつに織り込まれている繊細な機微を露わにさせる。

「だいしきゅーだいすき」はアイドルJ-POPとしてのせわしない曲調やMVの世界観にそこはかとなくY2Kのアーカイブを感じさせながら、当時の恋愛観に対し新鮮な息吹きを吹き込む。決め台詞の「だいしきゅーだいしゅきになれ!/アタシじゃないなんて終わってんね」で演じられる、低い声での〈ほんのりと強さを振りまく子どもっぽい可愛さ〉。一方で「鼓動」の可愛さは、より憧れ成分の強い、クラシカルな女性像にも通じるものだ。MVでは、ダリの絵画を想起させるようなオブジェが中期フェリーニ作品のような意味ありげで優美な構図によって並べられる。音数をできるだけ削ぎ落とし、一つひとつの楽器の鳴りを素晴らしい音響で響かせる処理が、巨大な資金をかけて作られたというCGと重なることで〈高雅でイマジネーション豊かな可愛さ〉を強調させる。

 そう、戦慄かなのが試みている挑戦とは、「可愛い」の差異の体系を作り上げることなのかもしれない。

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