『ロッキーVSドラゴ:ROCKY IV』が「大人」になって捨てた不都合な過去
#稲田豊史 #さよならシネマ
“書記長”が起立しない
3つ目はラスト、モスクワでのロッキー対ドラゴ戦の試合終了後だ。
1985年当時の米ソ冷戦期の世界情勢を節操なく反映した脚本(スタローンが執筆)だけに、試合開始時点でモスクワの観客はロッキーに敵意むき出し。しかしラウンドが進むごとに観客席からロッキーコールが出始め、二人の死闘を惜しみなく称える空気に変わっていく。
死闘の末、ドラゴを倒したロッキーのウイニングスピーチ。『ロッキー4』でのロッキーは、試合が進むにつれて観客の自分に対する気持ちや自分の観客に対する気持ちが変化したと述べ、「俺は変わり、あんたたちも変わった。誰でも変われるはずだ!」とスピーチを締めて大歓声を受ける。すると、貴賓席に座っていた“書記長”――当時のアメリカにとっての仮想敵国のトップ/明らかに当時のゴルバチョフ書記長をイメージ――がスピーチに感銘を受け、起立して敬意の拍手を贈るのだ。
しかし、『ロッキーVSドラゴ』に“書記長”起立のシーンはない。そもそもスピーチが短くなっている。観客とロッキーの気持ちが変化したくだりや、「俺は変わり~」がカットされているのだ。しかもロッキーがスピーチを終えた瞬間、貴賓席の“書記長”はじめ高官たちは、そそくさと退席する。まるで「不愉快だから帰った」とでも言わんばかりに。
悲しきオトナ化の果て
アポロの失礼発言カットとロッキーの責任逃れに関しては、まあ理解できる。それこそが、「過去の行動を隠蔽し、今の自分を良く見せる」オトナ仕草の典型だからだ。しかし、“書記長”の起立のシーン削除はどう解釈すればよいのか。
かつて中1で『ロッキー4』を観た筆者は、“書記長”の起立シーンにいたく感動した。というか、『ロッキー4』全編中もっとも記憶に残っているシーンがここだった。仮想敵国のトップが、自国の誇りを背負ったファイターを負かしたアメリカの選手に、惜しみない拍手を送っていたからだ。イデオロギーの対立を超えた、崇高なる敬意の表明。同作においてソ連は終始「抑圧的で不気味な国」として描かれていたが、最終的にはそのトップにちゃんと敬意を払った。その心意気が素晴らしいと思ったのだ。
しかし今回、そのシーンはカットされた。なぜなのか。真意はスタローンの胸の内にあるので、推測するしかない。
筆者が無邪気に感動したウイニングスピーチからのくだりは、もしかすると想像以上に政治的な意味合いが強かったのだろうか? あれは「ソ連はアメリカのイデオロギーに転向すべきだ」=「社会主義は間違いである」という、スタローンによる強い政治的メッセージだったのだろうか? 「誰でも変われるはずだ」というロッキーのセリフごとカットされているのは、ひとつのヒントかもしれない。
また、“書記長”の拍手は死闘を繰り広げたロッキーへの敬意や労いではなく、「ソ連がアメリカに屈服」のアナロジーだったのだろうか? 今回、そのあまりに無邪気すぎる政治性を消したかったのだろうか?
ちなみに、スタローンは長年にわたる熱心な共和党員で、前大統領のドナルド・トランプとも古くから親交がある。トランプの大統領就任時には祝福のメッセージも送っていた。……などという、いらぬ推測や情報で作品に無粋なレッテルを貼ろうとしてしまうのは、作品側ではなく観客側の悲しきオトナ化に違いない。
『ロッキーVSドラゴ:ROCKY Ⅳ』
8月19日(金)全国ロードショー
配給:カルチャヴィル、ガイエ
©︎2021 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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