源頼朝の死の謎――『吾妻鏡』の抜け落ちは義時・政子が頼朝の遺志に反したから?
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頼朝は糖尿病だった?
頼朝は死の直前まで、政治にかなり意欲的だったといわれています。次女・乙姫の入内工作のために三度目の京都行き(=上洛)を果たすらしいという“噂”が、天台宗僧侶・慈円の手による書物『愚管抄』に見られますから(ちなみにドラマでは慈円を声優の山寺宏一さんが演じるそうです)。
この時、すでに後鳥羽天皇は年若い息子に天皇位を譲って、上皇の身分になっています。それでも頼朝は新帝・土御門天皇ではなく、後鳥羽上皇にわが娘を嫁がせたいと考えていました。後鳥羽上皇という人物を頼朝が高く評価していたことがわかります。
『鎌倉殿』において頼朝と朝廷との関係は、大姫の入内がうまくいかなかったという描かれ方しかされていませんが、史実では彼の嫡男・頼家は建久8年中に後鳥羽天皇(当時)との対面も済ませ、同年12月15日には、従五位上の官位を朝廷からいただき、右近衛少将に任命してもらっています。頼朝の死だけでなく、本来なら晴れがましいはずのこういう情報まで『吾妻鏡』が欠落してしまっているのは、謎というしかありません。
頼家には歳の離れた弟・実朝(幼名「千幡」)がおり、その乳母は北条時政の娘・阿波局(ドラマでは「実衣」)でした。後に義時(と政子)は、比企家と縁の深い頼家を排除する立場に回り、実朝を次期将軍として擁立していくことになります。そのため『吾妻鏡』では意図的に頼家の栄光は文字化されなかったという事情も欠落の理由として考えられます。“北条家寄り”の史料である『吾妻鏡』では、頼家は排除されても当然の、好色で凡庸な人物として悪し様に描かれてもいますから。ですが、もう少し別の見方もあります。
ドラマ第25回では、頼朝本人から頼家を支えるよう頼まれ、義時・政子が約束するシーンがありました。史実でもそういう場面があったとしたら、義時・政子による頼家の追い落としは、頼朝の遺命に背いたことを意味します。それゆえ、『吾妻鑑』で頼朝の死の前後約3年分の情報が完全に抜け落ちているのは、頼朝の死についての情報隠蔽というよりも、義時・政子が頼朝の遺志に背いたことを伏せるための工夫だったのではないかという見方が、最近の歴史研究家の間ではあるようです(坂井孝一『源氏将軍断絶』、佐伯智広『「吾妻鏡」空白の三年間』など)。
しかし、やはりそれだけで『吾妻鏡』の3年間もの欠記の理由を本当に説明できるのだろうか、という疑問は消えません。
かなり昔から、頼朝の死の記述が『吾妻鏡』にないことを訝る人々は多く存在し、さまざまな推論が述べられてきました。頼朝が落馬した理由として、安徳天皇や義経の亡霊を橋供養の帰りに見て怯えてしまったから……というオカルトめいた逸話までありますが、これが記載された『保暦間記(ほうりゃくかんき)』は南北朝時代に成立したため、一次史料とはいえません。ただ、少なくとも南北朝時代の時点で、すでに頼朝の死が人々のあいだで不審視されていたことは推察されます。
江戸時代中期の元禄8年(1695年)、大坪無射という学者も『東鑑集要(あずまかがみしゅうよう)』という書物の中で、欠記の理由は「頼朝の薨御(=死去)を隠すと見へたり」と推論しています。しかし、頼朝の死の記述が『吾妻鏡』には最初から欠落していたのか、あるいは歴史のある時期に何者かの手で削除されたのかは確かめる手段はありません。
ただ、欠落の理由をひとつ想像することはできます。ドラマの頼朝は晩年、疑心暗鬼に陥ってしまい、特に第25回は被害妄想といえるレベルで周囲を振り回していましたが、もしこのようなことが実際の頼朝にも起こっていたのだとしたら? ドラマでも「近頃、鎌倉殿は何だかおかしい」と政子が以前に言っていましたが、晩年の頼朝の行動・発言にたびたび不適切なものが見受けられたとしたら、頼朝の名誉のために『吾妻鏡』から記述が抜け落ちていても納得できるのではないでしょうか。頼朝の最期についての記載が完全に省かれているのは、これまでよく言われてきたような「死因」に関連したことではなく、「死にざま」が問題だったからかもしれません。たとえば、死の床で瞬間的に意識を回復した頼朝が、「北条の謀反だ。私は毒を盛られた。北条を討て!」などと被害妄想を口走ったとしたら……。そして、それが北条家以外にも複数の御家人たちを前にした、頼朝の最期の言葉だったりしたら、大変なことになります。
実は『吾妻鏡』の欠記には、情報の整理・解釈が追いついていない部分を省いたままにしているのではという「未完の書物」説があります。もしかすると晩年の頼朝には、死の前後だけでなく、その最後の3年間を、どのように解釈し、鎌倉幕府の正史としてどうまとめたらいいか、判断を保留したくなるような事件が多発していた可能性もあるのです。彼の側近たちは、評判を落とすような頼朝の行動・言動があったことが外部に漏れぬよう、庇い続けねばならなかったのかもしれません。いずれにせよ、実証しうる歴史的資料が存在していないので、これは筆者の推論にすぎませんが。
頼朝の死に関する記録は、『吾妻鏡』をはじめ、鎌倉方には不思議なほど残されていない一方、京都方には情報がチラホラと残っています。頼朝死去の知らせが京都にもたらされたのは、1月20日だったようです。
頼朝が危ないという情報は、約1週間遅れで京都方にも伝わっており、頼朝が「飲水病(=糖尿病)」の発作で重病となって1月11日に出家したという記述が、摂関家の血を引く藤原家実の日記『猪隈関白記』に見られます(一月十八日条)。「瀕死の状態で出家?」と読者は思われるかもしれませんが、死が迫った時期にこそ、出家を遂げて亡くなると罪障が軽くなるという考え方が当時の上流階級にありました。しかし、出家は頼朝本人の意思だったかまではわかりません。家族が希望して、出家させることもあったからです。
糖尿病患者は脳血栓を生じやすく、ろれつが回らなくなったり、物をうまく飲み込めなかったりするそうです。「喉が乾いた」というセリフもありましたし、ドラマの頼朝も「飲水病」として描かれているのかもしれませんね(高血糖状態になると身体が脱水傾向になり、喉が乾きやすくなるそうです)。
この『猪隈関白記』から、頼朝が亡くなったのが2日後の13日であることもわかっています(一月二十一日条)。もし、藤原家実が書き留めてくれていなければ、頼朝がいつ死んだのかを後世の我々が知ることはできなかったかもしれません。当時の公家の日記は、頼朝の死の前後についてうかがい知ることができる貴重な情報源なのです。落馬後の頼朝が意識を回復したのか、昏睡したままだったのかは不明ですが、少なくとも出家したとされる1月11日か、その少し前に彼が危篤に陥ったと考えられるでしょう。
『鎌倉殿』の頼朝は、死の前に一度意識を取り戻すようなことはあるのでしょうか……。次回の放送が待たれます。
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