皇宮警察トップ「クソガキ」発言報道で考える皇室側のメディア戦略
#嵐 #皇室 #眞子さま
「週刊新潮」(新潮社)は、皇宮警察のトップが、愛子さまを「クソガキ」と呼んだり、眞子さんについて「男を一人しか知らねぇとこうなっちゃうんだな」と言ったりし、皇宮警察内で皇室への下劣な悪口が常態化していたという内部関係者の証言をスクープした。
平成以降、メディア上では皇室に対してはさまざまなバッシングがなされてきた。ことSNSが一般化してからは苛烈な誹謗中傷も行われるようになり、メディア側の問題として取り沙汰されることも。宮内庁職員などの関係者による皇室内の情報や発言がメディアに流れたことが引き金になるケースも多く、管理体制についてあらためて、疑問の声があがっている。
一方で、皇室の側からも”お気持ち”が表明される異例の事態などもあり、天皇陛下をはじめ皇族による会見やお言葉にも高い関心が集まり、日常的に触れるケースも多くなってきた。
本稿では、平成期以降の皇室がメディアに対してどのように情報を発信してきたかについて『SNS天皇論 ポップカルチャー=スピリチュアリティと現代日本』(講談社選書メチエ)の著者・茂木謙之介氏にインタビューした記事を再掲載する。
※本記事は日刊サイゾー 2022年6月6日掲載の記事を一部編集したものです。
「表現の不自由」展の炎上、眞子さん&小室圭さん叩きの背後にある皇室イメージ戦略
平成から令和へ改元する際のお祭り騒ぎ、「表現の不自由」展における昭和天皇の肖像の扱いやウクライナ政府がファシストのひとりとして昭和天皇を挙げたことへの右派の噴き上がり、眞子さんと小室圭さんへの激烈なバッシング……。近年も何かと世間を賑わす天皇/皇室を、「弱者政治(マイノリティ・ポリティクス)」「スピリチュアリティ/オカルト」「ポップカルチャー」という異色の切り口から論じた一冊が『SNS天皇論 ポップカルチャー=スピリチュアリティと現代日本』(講談社選書メチエ)だ。本書を著した茂木謙之介氏(東北大学大学院文学研究科准教授)に、平成期以降の皇室のメディア戦略と人々の受容の変化について訊いた。
弱さとスピとサブカルが重なる天皇イメージ
――天皇表象を「弱者政治(マイノリティ・ポリティクス)」「スピリチュアリティ/オカルト」「ポップカルチャー」を切り口に読み解くのが今回の本の特徴ですが、なぜこの切り口に?
茂木 今回の本の起点のひとつに、2016年8月の明仁(あきひと)天皇(現・上皇)の「おことば」を観ていた際、「弱さ」を戦略として使っていると感じたことがあります。これは(戦後の皇室表象にも散見されるものですが)ポリティカルにコレクトなことが求められるようになっていった近年の社会状況と重なるのでは、思いました。
また、天皇の「おことば」の中に一種の宗教的な超越性が描かれてきたことは過去にもさまざまな研究者が言及していましたが、私は平成期においてはライトでゆるやかな霊性――「祈り」という言葉でカバーされるような、宗教的な行為を脱宗教化するようなふわっとしたもの、宗教性というよりは霊的な物への親炙を示すいわゆる「スピリチュアリティ」に近づいているものととらえられるのではないかと考えていました。
最後にポップカルチャーですが、1960年代以降の日本社会においてはポップカルチャーが人びとの想像力の源泉となっており、弱者政治やスピリチュアリティ/オカルトも発露する場になっています。そうした状況が皇室にも認知されているであろう、と思いました。
ですから、この3つが有機的に絡み合って天皇イメージが展開していた時代が平成、ないし2010年代以降だったのではないかと考えています。
――茂木さんから最近の天皇論の傾向はどう見えていますか。
茂木 融和的といいますか、天皇フレンドリーなテクストが多い印象です。これは明仁天皇が昭和天皇をめぐる国内のさまざまな議論を相当に意識して発信されていたからでしょうし、その振る舞いによって、平成になって以降は天皇を批判するよりも評価する方向がいわゆる右派左派問わず主流だったといっていい状況が作られたように思います。
しかし、そこには実は危うい側面があって、それがポップカルチャーやスピリチュアリティに潜在しているのだということを論じなければと思っています。
ウクライナの昭和天皇とヒトラー同列視が炎上した真相
――平成期において明仁天皇が自身の加齢による衰えと、憲法上の制度下の制約という二重の抑圧を受けた「弱者」として天皇を位置づけるパフォーマンスをしてきたことが、左派による天皇制批判を困難にしたという指摘は、なるほどなと思いました。
茂木 明仁天皇に批判的な一部の保守派の論客を除けば、左右双方に納得のいくような言説を天皇が展開していたのは間違いありません。弱さをあえて見せることで承認を得ていくという作法は、非常に現代的です。
――最近だと、ウクライナがヒトラー、ムッソリーニと並ぶファシストとして昭和天皇を入れたことで、日本国内で批判が巻き起こりました。戦前の全体主義を象徴するものとしての昭和天皇のイメージ、「天皇の戦争責任」論の影響力が、もはや霧散していることを改めて感じる出来事でした。
茂木 昭和天皇は戦争責任に対してあいまいなまま亡くなった一方で、明仁天皇はそのイメージの解除に意識的であり、そのための言説を積極的に出してきました。戦後皇室のアキレス腱が戦争責任であったことは間違いなく、あからさまには語らないものの戦略的に言及し、批判を薄めることに成功してきた明仁天皇がいたからこそ、今回のウクライナによるファシスト扱い、あるいは「表現の不自由」展に対して過剰反応が起こったのではないでしょうか。どちらも掲げられた対象が昭和天皇でなければ、あそこまでの炎上にはならなかったと思うんですね。
――なるほど。一方で「弱者に寄り添う弱者」を平成、令和の天皇は演出してきたけれども、コロナ禍になって始まったリモートでの「オンライン行幸啓(ぎょうこうけい)」ではデジタル弱者には届かず、それがそもそも元から行幸では少数の限られた存在の耳目にしか触れてこなかったことも顕在化させる、と茂木さんは指摘されていますね。
茂木 戦前から天皇・皇族は弱者に寄り添う姿勢を見せていましたが、寄り添われるのはあくまで社会的に認知された救済の対象であり、国民として統合されるべき存在を選び取ってきたんですね。しかし、そこから外れる人もいたことをオンライン化は見えやすくした。デジタル弱者もそうですし、日本に生きていても国民ではない“移民”なども増える中で、天皇が誰に対してどう向き合うのかが今問われています。皇室においても考えられていないわけではないでしょうが、しかし、まだ枠組みが提示されていないように思います。
――スピリチュアル方面からの天皇・皇室への言及、利用にはどんなものがあるのでしょうか。
茂木 「皇室が世界で一番古い王室である」といったことを含め、皇室がなんらかの力を持っているという言い方はかつてからよくあります。現在でもスピ系のウェブサイトには皇室関連記事がよく見られます。もちろんスピ系も一枚岩ではないので、皇室をまったく扱わなかったり、アンチもいたりしますが、おおむね親和性は高い印象です。
ですが私が気にしているのは、そのような「天皇は神の末裔」と本気で信じているような積極的な受容者よりも、広く世間一般に何か不思議なことが起きた場合に「まあ、天皇だからね」と受けとめられてしまっている節があることです。
――天皇即位の儀の日に皇居に虹が架かったというネタがSNSで盛り上がってしまう、といった現象に対してですよね。
茂木 「スピリチュアルな皇室像」自体は皇室側が打ち出したいイメージ戦略からは外れているかもしれませんが、しかし、理念としての皇室を実質的に強化していく側面がありそうな気がします。戦争責任を問うこととは異なり、そうしたゆるやかに特別な存在だとみなすような受容に対しては批判がしづらい、届きにくいですから。
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事