沖縄慰霊の日、洞窟に穴を空け一般市民を焼き殺したアメリカの将軍
#沖縄
琉球分割を提案したグラント
グラントは沖縄との関わりも深い。
1868年の明治維新後、明治政府は領土確定と拡大に乗り出し、これまで「日清両属」だった琉球王国を日本の支配下に置くべく画策する。1879年に琉球王国を清国の冊封体制から引き離し、沖縄県を設置し日本に併合する琉球処分を強行した。当然、清国は猛反発した。
日本政府はおりしも世界旅行中で日清両国を訪問する、グラントに仲介を依頼した。米日清三国の協調的提携関係を切望するグラントは沖縄本島周辺までを日本領として、南の先島諸島を清国の下で琉球王国として再興するという琉球列島を二分割する案を示した。
日清両国も一度は合意に達し、後は調印するだけとなったが、最終的に在留清国琉球人が猛反対したため、この分割案は見送られることになった。
グラント案が通っていれば、先島諸島に位置する宮古島や石垣島は清国領、現在ならば中国領となっていた訳で、日中の軍事的緊張も尖閣諸島どころの騒ぎではなかったかもしれない。
南北戦争が分けた命運
バックナー親子とグラント。糸満市真栄里の高台のバックナー中将が戦死した場所に設けられた碑と、上野恩賜公園にある渋沢栄一の碑文入り、グラント将軍の植樹碑は対照的だ。
昔の恩を忘れバックナーの父親に屈辱の「無条件降伏」を受け入れさせたグラントはその後、大統領にまでなり、退任後の世界旅行で日本に立ち寄った際には明治天皇自らがグラント夫妻を歓迎し、浜離宮を宿泊先として提供した。
沖縄戦で戦死したバックナー中将がそうした日本側のグラント将軍に対する歓迎ぶりを知っていたかは定かではない。しかし、沖縄戦で勝利した後は凱旋将軍として、日本本土の土を踏みたかったに違いない。
南北戦争における父親のバックナー将軍の「ドネルソン砦の戦い」での無条件降伏から始まった親子のケチのつき始めは、息子のバックナー中将の沖縄戦における戦死まで続く。しかし、戦死から9年後の1954年7月の連邦議会の特別立法により彼は大将を追贈された。ここで“幸運の女神”もようやくバックナー親子に微笑んだ。
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