沖縄慰霊の日、洞窟に穴を空け一般市民を焼き殺したアメリカの将軍
#沖縄
6月23日は沖縄戦の戦没者を追悼する「慰霊の日」だ。1945年のこの日、日本の沖縄守備隊・第32軍の牛島満司令官と長勇(ちょういさむ)参謀長が自決し、日本軍の組織的な戦闘が終結した。沖縄県では県が制定する「慰霊の日」という記念日であり、県内のすべての公共機関が休日となる。
日本の激しい抵抗で戦死者約1万2000人と多大な犠牲者を出しながら、米軍を中心とする連合軍は辛くも沖縄戦に勝利した。しかし、この日本軍による組織的抵抗が終結した朗報を、沖縄方面連合軍最高指揮官たる米第10軍司令官、サイモン・B・バックナー・ジュニア中将は耳にすることはなかった。
5日前の6月18日、喜屋武(きゃん)半島の最前線を視察中に日本軍の砲撃を受け戦死したからだ。この戦死によりバックナーは敵の攻撃によって戦死した最高位の階級を持つ米軍人となる。
戦死した糸満市真栄里(まえざと)の高台には慰霊碑が建立されている。筆者は高台に登ってみたが周囲を遮るものはなく、当時も最前線視察に来たバックナー中将一行の動向が、日本軍陣地からは丸見えだったことが見てとれる。
凱旋将軍となるはずも批判は絶えず
米軍は沖縄戦に勝利したが、嘉数(かかず)高地を巡る戦いや首里攻防戦で大苦戦を強いられた。嘉数高地から4キロの距離にある浦添の前田高地の日米両軍による死闘はメル・ギブソン監督の映画『ハクソー・リッジ』(日本公開2017年6月)でも描かれたので、我々の記憶にも新しい。
首里攻防戦で米軍が苦戦した際には、屈強な日本軍の防衛線への正面からの攻撃を再考し「なぜ海兵隊を防衛線背後に上陸させないのか」などバックナー中将の作戦指揮に対しての批判も上がった。
首里陥落後、牛島司令官率いる日本軍の残存部隊は南部へと撤退する。バックナー中将が戦死したのはこの南部での戦いだ。
南部の戦いはすでに戦力を消耗し米軍撃滅など到底できなくなった日本軍がただ戦闘を長引かせるために行った戦いで、中南部の住民が避難していたガマ(沖縄本島南部に多く見られる自然洞窟)に日本軍が逃げ込んだ。軍民混在の戦場となったため、この戦いでは多くの住民が犠牲となる。ひめゆりや白梅学徒隊の悲劇が起きたのも、この南部での戦いだ。
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