「親ガチャ」格差ワード流行の背景に“設計者”がいるという絶望
#親ガチャ #朱喜哲 #小神野真弘
絶望を加速させる「日本社会の理念の不在」
アメリカの「親ガチャ」をめぐる状況を日本のそれと比べた際、もうひとつの際立った違いが見えてくる。怒りの存在だ。名門大学が多額の寄付を行う富裕層の子どもたちを優遇して入学させることにアメリカ人は怒りを表明するが、日本で「親ガチャ」が語られる際、怒りの感覚はどこか希薄だ。何故か。
「怒るためには、暗黙の前提として『本来こうあるべきだったのに、そうなっていない』という理念が集団に共有されていなければなりません。先述のサンデルの著書からも読み取れますが、分断が進行しているといわれるものの、アメリカには立ち返るべき理念が確固たるものとして、いまだある。理念が実行されているか否かを照らし合わせる余地が存在するから、人々は怒ることができるのです。しかし日本の『親ガチャ』という言葉に伴う感情は、怒りですらない。もはやネタ化して笑うしかない、という本当に深い諦観がそこにあります。そうなってしまうのはやはり、社会はどうあるべきか、どのような社会を目指すべきか、といった理念が見えづらいというのが大きな要因だと思われます」
だからこそ、言葉が持つ意味や内包される前提を自覚し、責任をもって言葉を選ぶことの重要性がいつになく高まっていると朱氏は説く。
「家族や友人、恋人など、大切な人と話すときにどうしているか考えてみてください。“借り物”の言葉では成り立たない会話がたくさんあるはずです。自分で責任が取れる言葉を使うこと、いわば言葉にコストを払うことでしか構築できない関係というものがあり、それは人を豊かにしてくれる。そんな人と人の関係が無数に集まったものが社会であると考えれば、私たち一人ひとりが言葉を大切にすることで起こる変化はきっとあるはずです」
現在、出自による不全感や諦観に苛まれている人がいるならば、それは「親ガチャ」の結果なのだろうか。それとも「『努力は報われる』と謳いながらも、裕福なエリート層の特権を保護するばかりで、苦境にある人々の声を自己責任という名目で不可視化し、富や機会の再分配を蔑ろにし続けてきた社会構造」のためなのだろうか。問い直す意義は小さくない。
(プロフィール)
朱喜哲(チュ ヒチョル)
広告会社主任研究員、大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。ヘイトスピーチや統計的因果推論も研究対象として扱う。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。
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