沖縄返還と犬養毅首相暗殺の「五・一五事件」
#沖縄 #米国
上手くいくか、政府による沖縄の世論作り
振り返って、間もなく復帰50周年を迎える沖縄に目を向けよう。
「日米同盟深化」と政権与党の幹部たちが声高々に謳いながら、「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組み」(沖縄大学元学長、故新崎盛睴(あらさきもりてる)氏の言葉=宮城修著『ドキュメント〈アメリカ世(ゆー)〉の沖縄』岩波新書より)は変わらない。
台湾有事などの際は、沖縄返還交渉時の日米首脳、佐藤首相とニクソン米大統領の密約(有事核の再持ち込み)に基づき、沖縄の米軍基地に核が持ち込まれることは必至なのに、岸田首相も歴代の首相に倣い、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」の三原則堅持の立場を重ねて示す。
しかし、一部の本土の人は騙せても、本土復帰から50年を経ても、米軍基地が集中する状況下にいる沖縄の人たちをこれ以上騙し続けることは今後一層難しくなっていくだろう。
政府が沖縄の米軍基地問題ときちんと向き合わなかったら、年間3000億円といわれる沖縄振興予算をたとえ倍額にしても、いつ何時、何が切っ掛けで沖縄県民らの怒りが爆発するかもしれないからだ。
そして、「天皇親政による国家改造」と響きの良い言葉で皇道派が軍部による政権樹立を目指し、裏で糸を引いた90年前の「五・一五事件」の頃とは明らかに状況が違う。新聞だけが庶民の主な情報源だった当時とは違い、今はインターネット、ソーシャルメディアも発達している。
沖縄県民は非識字でもなければ、デジタル難民でもない。本土の与党の政治家らが対中関係の緊張、北朝鮮ミサイルの脅威などを理由に沖縄の米軍基地は日本の安全保障上、必要不可欠な存在と思っていることも十分承知している。そして、台湾有事などがあれば、沖縄の米軍基地が中国、北朝鮮からのミサイルに真っ先に狙われ、その被害が自分たちに直接及ぶ危険があることも分かっている。
50年ぶりに政府に示された建議書 今も胸に突き刺さるカメジローの言葉
そんな状況下、沖縄県の玉城デニー知事が5月10日、首相官邸を訪れ、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設断念などを求める建議書を岸田首相に手渡した。
実は沖縄が建議書を作成し日本政府に示すのは今回で二度目となる。本土復帰前の1971年11月17日、当時の琉球政府の屋良朝苗(やらちょうびょう)主席(現在の沖縄県知事にあたる)は沖縄返還協定批准の是非などを審議中の沖縄国会に、米軍基地の撤去を含む「即時無条件全面返還」を求める建議書を届けようと空路、東京に向かう。しかし、屋良主席が羽田空港に到着する直前に衆議院の沖縄返還協定特別委員会で自民党により強行採決され、米軍基地のない本土復帰を望む沖縄県民の願いは無視されてしまう。翌日、屋良主席は佐藤首相に建議書を手渡すが、強行採決に抗議するのが精いっぱいだった。
米軍基地問題の差別的現状と解決を訴える、今回50年ぶりに政府に示された建議書もやはり前回同様に無視されてしまう運命なのか?だとすれば、いくら政府が官民挙げて、「沖縄の本土復帰50周年」を慶事として祝おうとしても、沖縄に米軍基地が集中する状況が続く以上、良識ある大半の沖縄県民は、表向きはこの慶事を祝いつつも、もはや諦めた目で事態の推移を見守っていくだけなのかもしれない。
米軍統治下の沖縄で、1956年12月に那覇市長に当選するも、米軍の圧力で市長の座から引きずりおろされた瀬長亀次郎(カメジロー)は後に衆議院議員としても活躍し、米軍基地のない平和な沖縄を生涯訴え続けた。そのカメジローが回顧録でいみじくも語った「戦争(沖縄戦)は終わったが地獄は続いていた」の言葉が沖縄本土復帰50周年を迎える今日(こんにち)も、胸に深く深く突き刺さる。
今回の「五・一五」が民主主義を歪めるのではなく、沖縄県民を含む、すべての日本人に、真の民主主義とは何かについて覚醒させる日となることを切に願う。
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