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「観た人にアクションを起こしてほしい」

戦う人々を描き続ける原一男が新作『水俣曼荼羅』に込めた思い

戦う人々を描き続ける原一男が新作『水俣曼荼羅』に込めた思いの画像1
©︎疾走プロダクション

 総上映時間6時間12分、休憩2回の3部構成、一回の料金は3900円。規格外のスケールのドキュメンタリー映画が、日本各地の映画館を巡回している。

 タイトルは『水俣曼荼羅』。監督は原一男。『ゆきゆきて、神軍』『さようならCP』などで知られるドキュメンタリー界の鬼才だ。

 権力や差別など、社会を取り巻く不平等や理不尽と戦う人々を描いてきた原が、今回題材としたのは「水俣病」。裁判闘争を軸とした大規模な社会運動が展開されたことでも知られる、戦後日本を代表する公害病だ。すでにさまざまな立場の人が伝え、語り継いでいる題材でもある。

 原は、患者、支援者、医師、魚の研究者、政治家、官僚、役人、文学者など、さまざまな立場の人々に話を聞き、水俣病を取り巻く問題を浮かび上がらせた。

 そこに映し出されているのは、「水俣病」という一地域の物語に限らない日本社会の問題であり、戦う人々の葛藤である。

 かつて原は権力や社会構造と戦う強靱な人々を「表現者」と呼び、その姿をスクリーンに刻んだ。そして今、彼は自らが「生活者」と呼ぶ、いわゆる普通の人々の戦いを記録している。

 その変化の理由。そして、映画の中に描かれた日本社会の問題点とは?

捨てたつもりの「生活者」に再びカメラを向けたわけ

戦う人々を描き続ける原一男が新作『水俣曼荼羅』に込めた思いの画像2
©︎疾走プロダクション

ー『水俣曼荼羅』(以後、水俣)と、2017年に発表された『ニッポン国VS泉南石綿村』(以後、泉南)は、公害での裁判闘争の様子が大きな柱となっているという点でよく似ています。一方、代表作『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三さんは法の枠組みを踏み越えていく人でした。よく「『泉南』『水俣』は”生活者”の映画で、それ以前は”表現者”の映画」とお話していますが、両者の違いについてうかがえますか。

 まず自分の話をしますと、私は山口県宇部市のはずれの炭鉱の育ちなんです。炭住という長屋住宅があってね、そこで育ちました。瀬戸内海に海底炭鉱があって、その拠点になっている集落でした。ところが、私が小学校に入る前に、石炭産業が石油産業にとって代わり、ひどい貧乏になるんです。家族も離散したりして。

 私は昭和20年生まれなんですが、全共闘運動のノンポリと言われる若い連中から生き方を学んだと思っているんです。貧困層を抑圧している権力に対して「戦う以外ない」というのを、とことん教えられた。

 私が大人になって成長するまでの時間は、戦争に負けた日本の中に、民主主義が根付いていく過程だったと思っています。でも、並行して日本が繁栄していく中で、さまざまな矛盾や膿が生まれてくる。そして、80年代をピークに日本が衰退していくと、今度は「民主主義は本当に根付いたのか?」という疑問が生まれてくる。

 そういう時代の流れの中、25歳の時にたまたまドキュメンタリーという表現手段と出会いました。私は貧困層の出で、学歴や芸術に関する秀でた能力があるわけではなし、美しくもない田舎出の若者に過ぎない。コンプレックスのかたまりみたいな存在なわけです。そこで、時代の持つ大きな価値感や権力に対して抗ってる人、戦ってる人たちにカメラを向けることによって、弱い自分を鍛えてもらおうと思った。

 私は人間には「表現者」と「生活者」というふたつの生き方があると考えています。自分と自分の家族のために生きるのが生活者。日本は圧倒的に生活者の生き方をする人が多い。それは別に批判するようなことではないのですが、100%生活者ばかりだと世の中が変わらない。そうではなく、世界中にいるもっと貧しい人たち、苦しんでる人たちの幸せのために生きる人たちのことを表現者と呼ぼうと考えた。そして、できれば自分も表現者として生きたい。当時は、自分は「生活者であることを捨てた」という感覚がありました。

 1作目の『さようならCP』は脳性麻痺の運動団体「青い芝の会」を撮っています。障害者の運動団体はたくさんありますが、彼らはその中で最も戦闘的なグループで、乗車拒否に反対してバスジャックをやったりした。

 2作目『極私的エロス・恋歌1974』の主人公は武田美由紀という女性。彼女は美術をやってたせいもあって、私よりはるかにアートに関して批判的でした。彼女の場合は両親が「妻は夫に従う」というタイプで、そういう生き方をしたくないと考えていた。彼女の敵は封建的な家族主義にあると学ぶわけです。

 それから10年くらいブランクがありますが、その間に先輩カメラマンの紹介で、映画づくりを勉強しました。2作目まではまったくの自己流だったので、劇映画やPR映画、児童映画やピンク映画を通して、映画作りの基本を学んでいきます。

 3作目『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三さんは、今村昌平さんが紹介してくれました。奥崎さんは太平洋戦争の生き残りで、日本に帰ってからは天皇制に抗うような生き方をする。彼を「理想的な強い人」というイメージでとらえたわけです。

 4作目『全身小説家』は作家の井上光晴さん。「文学を通して革命を」という問題意識を強く持っていた人で、私の意識の中では戦う人、表現者の一人でした。

 それから10年、権力と戦って私を導いてくれるヒーローはいないか探したんですけど、いなかった。「なぜいないのか」を考え始めて、さらに10年。結局、20年間作品を作ることができなかった。そんな時、たまたま「原さん水俣をやってみませんか」と声をかけてくれる人がいたわけです。即飛びついて「やります!」。これで映画が作れると思って。同じように「泉南をやりませんか」と言われて、これも「やります」と。でも、実際にカメラを回してみると、あまりにも普通の人すぎて、「これは映画になるのだろうか」という葛藤が始まりました。

 私はドキュメンタリーは「劇映画以上に面白く作らないと誰も見てくれない」という実感をずっと持っていたので、面白い映画を作るためにはとにかくアクションを起こしてくれないと困る。奥崎さんはその典型で、何かというとケンカを売るタイプです。でも、水俣や泉南の人たちはそうではない。それでも水俣の人たちは裁判闘争ということを知ってらっしゃるけれど、泉南の人たちは本当に普通の人たちです。奥崎さんならパパッとやっちゃうことに対して、延々と話し合いをしている。「権力に抗う」ということに遠慮がちな人たちだったんです。

 そのたびに「これは映画になるのか」という疑問が浮かんできて、悩みながらカメラを回していました。その悩みは、編集に入ってからも克服できなくて、自信がないまま山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映をしました。でも、上映が終わって私がロビーを歩いてたら、たった今映画を観た人が、心からそう思っているのが伝わるような声で「面白かったです」と。そういう人が次から次へと30~40人くらい声をかけてくれた。そこではじめて自信が持てたんです。

『泉南』から『水俣』を作るまでの過程は、生活者にカメラを向けることの意味を自分の中で見つけていく過程でもありました。そして、今後は生活者にカメラを向けて、もっと面白い映画を作っていけばいいという思いが固まってきた。「生活者を捨てた」という二十代の判断の過ちを取り返し、「生活者をもっと面白く描いてやろう」という野心があります。

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