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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 新作『水俣曼荼羅』に込めた思い
「観た人にアクションを起こしてほしい」

戦う人々を描き続ける原一男が新作『水俣曼荼羅』に込めた思い

「シーン」から「シークエンス」へ、より生き方伝わる映像に

ー『泉南』も面白かったのですが、『水俣』はより登場する人々の生き方が伝わるようになっていました。

 映画としての表現が『水俣』から『泉南』では格段に進歩していると思っているんです。『泉南』の時は、60名くらいの原告団全員の人生を凝縮するようなシーンを撮って、それをつないで一本の映画にしようと考えてたんですよ。カメラが嫌という人もいましたので、全員を写すことはできなかったんですが。

 わかりやすい例で言うと、『泉南』の在日朝鮮人のおばあちゃん。周囲から差別を受け、結婚した旦那は暴力を振るう。そんな中で子どもを育て上げ、子どもたちが巣立っていって、やっと楽になった。今になって初めて夜間学校に行って、勉強して字を覚えた。「自分の名前が書けるようになって、本当にうれしかった」と話す。私、あのシーンを見るたびに涙が出てくるんですよ。おばあちゃんの人生が凝縮されたあのシーンが映画を観ている人に伝われば、感動が成立すると考えたんです。

 映画理論的な話になりますが、映画は「カット」が集まって「シーン」を作ります。「シーン」を合わせていくと「シークエンス」ができる。そして、「シークエンス」を並べていくと一本の「ストーリー」ができる。

『泉南』の場合は、シークエンスをそれほど強く意識してなくて、カメラを向けた人の人生をシーンに凝縮するというところに意識がいっている。でも、『泉南』が評価されて自信をつけたから、『水俣』はシークエンスを作ろうとしたんです。

ーシーンの選択が面白いです。原告の溝口秋生さんが、裁判にいたるまでのことを話す場面がありますが、あそこで「昔、飼っていた牛に指をかまれて大怪我をしたので、牛を叱ったら涙を流した」という何気ない話をしていて。裁判の記録だけでも膨大な素材があるのに、ああいう場面が選択されているのが魅力的でした。

 皆さん、つらい経験をしながらも精一杯生きてる。それを全身で表現している姿を立体的に描くことができたと思います。いくつかのシーンが有機的に散りばめられて、6時間12分という広大な物語が出来上がってくる。それができたから、見ている人に生活していることの喜びやリアルが伝わっていったんだろうと。

戦う人々を描き続ける原一男が新作『水俣曼荼羅』に込めた思いの画像3
©︎疾走プロダクション

ー主題は重たいけれど、見終わった後に元気になる映画でした。皆さんそれぞれ日常生活を営みながら戦っていることにはげまされます。

 あの人達がああいう生き方を自覚的に進めていって、どこかで表現者と言われるような質のものを獲得していくんだろうなと思ってるんです。人間は進化したいと思ってる生き物なので。

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