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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」

MULBE×MACKA-CHIN世代を超えた2人が証言する「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」

徐々に完成されていく 宇田川町発信のカルチャー

MACKA-CHIN 結論っぽくなっちゃうけど、俺らが影響を受けていたヒップホップって――その当時は気軽にそんな言葉を使ってなかったけど――カルチャーだったんだよね。生き様も考え方も、ファッションも音楽も。洋服屋の店員がレコ屋にいて、レコ屋の店員が洋服屋にいる。とにかくアンテナの高い連中同士がコミュニケーションを図るという、まさに人間交差点のような場所が宇田川町だったんじゃないかな。音楽のジャンルじゃなく、そのカルチャーを発信してたんだと思う。

 MULBEが「すでに完成されていた」って言ったけど、その頃には〈ヒップホップ=音楽〉になっていたから、宇田川町はカルチャーの発信源ではなく、ヒップホップの“お買い物の聖地”みたいに感じ始めた世代も多いのかもしれない。もちろん、MULBEはカルチャーを理解してINしてきたわけだから、その差は大きいけどね。

MULBE そうですね。レコ屋のスタッフも08年くらいになるとみんな優しくなってましたし(笑)。

MACKA-CHIN 「試聴はおひとり様5枚まで」とかポップができてたもんね。

――当時、MULBEさんはどんなレコードを購入していたか覚えていますか?

MULBE Def Jamをレーベル買いしていたのは覚えてますね。あとはジェイ・Z、ディプロマッツ、ゴリゴリのヒップホップの新譜を漁るように買ってました。さすがに中3のときは(レコ屋の)スタッフに圧倒されて試聴も怖くてできなかったんですけど、スタッフとの対話をきっかけに踏み込むようにしました(笑)。

MACKA-CHIN いやそれはマジ大事。俺らの時代、原宿と渋谷ではマストだったからね。もう、世界が変わるもん。

MULBE そこは僕の時代も変わっていなかったと思います。神宮前にあったファントムって軍物屋でバイトしてた時期があったんですけど、お店に来たお客さんとクラブで会って話したりとか、普通にありましたもんね。

MACKA-CHIN 洋服がダサいヤツはショップから相手にされなかった時代だったからね。「おしゃれである」ことが最低条件というかさ、まさに毎日磨くスニーカーとスキル。映画『Do the Right Thing』(89年)でジョーダンを踏まれて怒るシーンがあるじゃん。あの感覚というか、小っちゃいニューヨークを宇田川町が再現していたようにすら思えてくるもんね。ニューヨークは路上でお酒を飲んじゃいけないから紙袋に入れて飲んでたりしたけど、俺らもそれを真似てた。中身は麦茶だったけど。

『LIFE GOES ON』MULBE×MACKA-CHIN「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」の画像4
cherry chill will.

――洋服屋とレコード屋、DJとラッパー、それに加えてダンサーの存在も大きかったですよね。

MACKA-CHIN それは絶対ある。97年にHARLEMができて、(DJ)KANGOくんとKOYAくんが仕掛けてた火曜の帯『RED ZONE』は、ダンサーのためのイベントだったもんね。俺が中学~高校のときのダンスフロアの人気者は常にダンサーだったし、90年代のシーンをダンサーが作っていたのは間違いない。RINOくんのようなダンサー上がりでラップするようになった人の韻の踏み方も特徴的だったしね。ベタに踏むんじゃなく、どこか変則的な小節で刻んでくる。

MULBE 宇田川町にダンサーがいたんですね。

MACKA-CHIN クラブで踊るショウケース用の音を作るためにさ、ダンサー自身がレコードを買いに来るんだよ。けど、00年以降は徐々に日本語ラップが成熟していき、ダンサーとラッパーが分かれ始めるんだよね。それこそ『RED ZONE』はラッパーが遊びに行くようなイベントじゃなくなってたし、そもそもラッパーが欲しい音とダンサーが欲しがる音に、どんどん差が開いてきたんだよ。ラッパーはどんどんクイックにつないでいくプレイが好きなのに対して、ダンサーは1曲をゆっくり踊ってリズムキープみたいな。そうこうしてるうちにスケーターや洋服屋の店員はクラブに来なくなって、トランスが流行りだし、クラブそのものに変化が起き始めるんだよね。

――00年以降のダンサーとラッパーの分断には、ヒップホップサウンドの変化も大きく関係していますよね。

MACKA-CHIN サンプリング・ヒップホップからティンバランドとスウィズ・ビーツの作る音が持てはやされるようになって、一気に変わった。そのくらいの時期からじゃないかな、レコードの売り上げが落ち始めるのって。今はもうなんの抵抗感はないけど、当時は「なんだこのスカスカな音は! 認めんぞ」って思ってたし、いわゆる“チキチキ”の到来でNITRO世代はげんなりしたんですよ。

 一応ね、ツアーのときなんかにスウィズの曲ばかりのミックステープとか聴いたりはしてたけど、「ねえねえ、アウトキャストのほうが面白くない?」とか、むしろ田舎のヒップホップにかっこよさや面白さを見出してたくらい。で、2000年にNITROのメジャー盤を出すんだけど、その頃には俺の中のレコード熱も落ちてたもんなあ。クラブにサンプルを配りに来るレコード会社の人たちも、アナログじゃなくCDになってたし。

――ダンサーとラッパーの分断が起き、レコードの売り上げが落ち始めると閉店するショップが増え、それに伴い店をたたむ洋服屋も目立ち始めたのが06~07年くらいですかね。

MACKA-CHIN ヒップホップが巨大産業化したことで興味がなくなった人もいれば、「ねえねえ、森の中でレイヴパーティっていうのがあるみたい。超楽しそうじゃない!?」とか野外イベントが流行りだし、トランスに加えてジャングルやドラムンベースとか、新しい音楽のムーブメントが生まれ、ファッショニスタや時代の先を行く人々は、みんな「え、ヒップホップ?」みたいな感じになっちゃったんだよね。さらにネットの普及でオンラインが当たり前となり、みんな散っていくんですよ。

MULBE それでも僕は当時、宇田川町は好きでしたけどね。たぶん、話を聞く感じだと、限りなく宇田川町の終わりのほう……と言ったら語弊がありますけど、MACKAさんが楽しんでいた時代ではなく、いなくなってからの世代だと思いますけどね。

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