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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」

MULBE×MACKA-CHIN世代を超えた2人が証言する「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」

『LIFE GOES ON』MULBE×MACKA-CHIN「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」の画像1
cherry chill will.

 1987年、東京都生まれ広島県育ちのラッパー・MULBEは、ヒップホップのカルチャーを全身全霊で受け止めるべく、高校1年で上京することを決断する。そこで彼にとってひときわ輝いていた場所は、“レコードの聖地”と呼ばれた渋谷宇田川町。ある種、その土地が持つひとつの要素を作り上げたといっても過言ではないヒップホップグループ〈NITRO MICROPHONE UNDERGROUND〉。同グループのメンバーであり、MULBEのデビュー作『MOVE』のエグゼクティブ・プロデューサーでもあるのが、ご存知MACKA-CHINだ。

 そんな彼らに「あの頃」と「その頃」の宇田川町の喧噪をレミニスしてもらいつつ、MULBEの新作にちなんで宇田川町経由の“LIFE GOES ON”対談を決行。

――まず、MACKA-CHINさんが宇田川町にINした時代を振り返ってもらえますか?

MACKA-CHIN 中学が私立だったから中1(86年)から渋谷に行き始め、それからレコードショップ「CISCO」に通い、レコードを集め出した感じだったかな。友達のお兄ちゃんに聴かせてもらったパブリック・エネミーの影響で。レコードを買ってたのはもちろんなんだけど、CISCOの袋を持って歩くことがおしゃれというかね。女の子はLouisetteとかBEAMSの巾着をぶら下げてた感じ。ただ、その頃はまだ“宇田川町”って言葉は使ってなかったよね。そのエリアには間違いなく行ってたけど、宇田川町と認識せずにあくまで渋谷。当時はシステム手帳が流行ってたからLOFTに見に行ったり、時計はSWATCH、高いリーバイスのジーンズも探したり、確実にファッションから入ってたと思う。

――その経験がよりヒップホップカルチャーに傾倒するきっかけになっていった形ですか?

MACKA-CHIN 足立区在住だったから、とにかく都会に行きたくて仕方なかったんだよね。今だったら「下町最高!」とか言えちゃうけど、当時は常に都会に憧れを抱いててさ。高校を卒業して、浪人しながらバイトを探してたタイミングで、当時CISCOの店長に「バイト探してるんすよー」って相談したら、原宿のSTUSSYを紹介してもらってバイトを始めるんだけど、その頃にはもうどっぷり浸かってた。なんとなくだけど、原宿~渋谷の熱気が宇田川に集まってきてた時代だったのかな。

『LIFE GOES ON』MULBE×MACKA-CHIN「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」の画像2
cherry chill will.

――それを印象づけた出来事は何かありましたか?

MACKA-CHIN 93年くらいだったかな、Manhattan(Records)が桜ヶ丘から宇田川町に移転してきたタイミングでピリッとしたのは覚えてる。そこで“マンハッタン派”と“シスコ派”に分かれるからね。もともとCISCO派というか、CISCOにばっか行ってたけど、移転後のManhattanはいろんな意味でフィールするところが多くて、俺やSUIKENはManhattanのほうが居心地がよくなっちゃったんだよね。名物スタッフもたくさんいたし、かわいがってもらってたし、その頃にSTILL DIGGIN’がManhattanの裏に移転してきて(94年)、ファッションと音楽との接し方がより濃くなってきた。あと、俺が働いてた原宿周辺のお店って、だいたい20時で終わるんだけど、宇田川のお店は21時まで営業してたから、歩いて渋谷に向かってもまだオープンしてる、っていうのも原宿と宇田川をつなげた大きな理由だったと思うな。

――なぜ居心地がよかったんですか?

MACKA-CHIN CISCOは女の子のスタッフが多くて、Manhattanは男汁だったからかな。あと、Manhattanは一棟ビルで、2階と3階が事務所だったから靴を脱げるのがデカかったんだよ。仕事を終えて、クラブに遊びに行くまでの2~3時間で1回靴を脱げるのはデカい。でも、それはスタッフと仲良くなってからの話で、イタチョー(Mr.Itagaki a.k.a. Ita-Cho)とかはマジ怖かったよ。CISCOはみんな優しくて、あわよくば試聴もブースで聴かせてくれたもんね。試聴してたら棚にハセベ(DJ HASEBE)やワタくん(DJ WATARAI)の無条件取り置きレコードとか置いてあって、超ジェラった思い出。一方でイタチョーに試聴をお願いしても「は?」みたいな感じだったからさ。でも、MUROくんに紹介してもらって、「お世話んなってます!」みたいにあいさつしたら「CISCOとかクソっしょ」とか言われて(笑)。「うちにもいっぱいプロモのレコードあるからさ。名前覚えておくから、うち(Manhattan)来いよ」で、レコードを買いに行って、「これヤバいよ。あ、これもヤバい。今日、いくら持ってんの?」って、半分カツアゲみたいな感じでレコード買ってました。

『LIFE GOES ON』MULBE×MACKA-CHIN「渋谷・宇田川町~あの頃とその頃」の画像3
cherry chill will.

――MULBEさんのINはどんな形でしたか?

MULBE 中学まで広島だったんですけど、15歳で上京したんですね。それが2002年くらいで、僕が今年35歳、MACKAさんとは13歳離れているので、すでに宇田川町が完成されていた時代にINしました。

MACKA-CHIN 俺がさんピン(CAMP)に出たのが22~23歳くらいだから。その時はまだ10歳くらいか、MULBE。

MULBE ManhattanでもCISCOでも、洋服屋だったらGROW AROUNDとか、店の袋を田舎に持ち帰っただけで「仕上がってんねえ」と言われた時代でしたからね。僕が行きだした頃は、すでにBOOT STREET【ラッパーのD.Oがプロデュースした日本語ラップ専門のCD/レコードショップ。2011年に閉店】があったので、そこで(ラッパーの)T2Kや、GROWでB.D.さんと出会い、それこそMACKAさんと仲良くさせてもらってから「宇田川はこんな感じだった」って話を聞いたり。なので、ゴリゴリのB-BOYだらけのスロウバックな宇田川町は、実は想像でしかないんですよね。

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