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#週刊誌スクープ大賞
菅前総理「取材は厳しかったが憎めない人だった」 ノンフィクション・ライター松田賢弥を偲んだ夜
ところで、ノンフィクション・ライターの松田賢弥(享年67)の「偲ぶ会」の話をしたいと思う。
4月28日(木曜日)、市ヶ谷の「ホテルグランドヒル市ヶ谷」で6時半から。
文藝春秋の新谷学編集長、ノンフィクション・ライターの森功、常井健一、鈴木崇之元週刊現代編集長、飯田昌宏元ポスト編集長、元日刊ゲンダイの二木啓孝、関口一喜、月刊創の篠田博之編集長、出版人の今井照容、月刊日本の南丘喜八郎、さくら舎の古屋信吾、元エルネオスの市村直幸編集長、元講談社の加藤晴之、講談社BCの出樋一親社長、中国問題評論家の近藤大介、平沢勝栄衆議院議員、松田賢弥の甥・松田卓など、56名が参集してくれた。
ビッグ・サプライズは菅義偉前総理が顔を見せてくれたことだった。
実は、10日ほど前、私が手紙を書いて案内状を同封しておいたのだ。すると、私の携帯に菅前総理本人から電話があった。だがそのことは会を手伝ってくれる人間にしかいってなかった。
会が始まる前に、井沢八郎の『あゝ上野駅』を二番までかけた。シャンデリアが輝き、周囲の壁がピンクがかった結婚披露宴をやる部屋は、一瞬にして、東北の玄関口・上野駅のアメ横へと雰囲気を変えた。松田賢弥が酔ってカラオケで歌っていた歌だった。
新谷学文藝春秋編集長の挨拶で始まった。松田賢弥は私と一緒に小沢一郎追及を長い間やってきた。その中には、金脈だけではなく女性問題もあった。
小沢が浮気をして、子どもを産ませ、その子を愛人に引き取らせたという情報があり、松田賢弥が地を這うような取材をして、90%間違いないという確証まで得た。だが万が一間違っていたら、私が辞表を出して済む話ではない。
どうしようか迷いに迷ったが、週刊現代で掲載することを決断した。発売後も小沢の方から苦情も、告訴もしてこなかったので、事実だったと確信したが、その後、それについての情報はとんと漏れてこなかった。
私も週刊現代を離れ、松田賢弥もフリーで仕事をし出した。そして2012年6月21日号の週刊文春で、彼がスクープした「小沢一郎の妻からの離縁状」が公開されるのである。
そこには、小沢が東日本大震災以降、放射能が怖くて選挙区である岩手県に帰らないことや、愛人に産ませた子どものことも書かれていたのだった。
新谷編集長は、週刊文春を引き受けたが、「スクープでは売れない」といわれていた。だが、このスクープで完売し、スクープでも売れると確信した。そのきっかけになった松田さんには感謝していると話した。
菅前総理には挨拶と献杯の発声をお願いした。松田には、菅官房長官をインタビューしてまとめた『影の権力者 内閣官房長官 菅義偉』(講談社)がある。
「松田さんからしたたか、悪だと書かれたが、松田さんが逝去されてからずっと気になっていた。取材は厳しかったがなんとなく憎めない人だった」
概ねこのように話して献杯してくれた。同じ東北人、どこかで通じるところがあったのだろう。
平沢衆院議員が、「あれだけ悪口を書かれたのに、菅さんがここにきて挨拶をするとは、驚いた」といっていた。
多くの人にあいさつしてもらったが、皆、温かい心のこもったものだった。
締めは出樋一親講談社BC社長。
私は最後に、「松田賢弥さんはお母さんが大好きだった。お母さんは90を過ぎて健在だが、彼の死は伝えられていない」といったところで、涙腺が切れた。
私は母親、おふくろという言葉に極端に弱い。親不孝を重ねてきた私が、初めての出版記念会をやる2日前に、おふくろは突然亡くなった。
朝、別の部屋で寝ていた親父が見にいって発見した。齢80歳だった。
罰当たりの息子は、亡くなる数日前に、どうしようもなくなっておふくろに頼み込んでカネを借りた。私は50代半ばを過ぎていた。そんな不甲斐ない息子を見て愕然とし、そのショックが死を早めたのではないか。今でも負い目を感じている。
松田賢弥のおふくろさんの話が、私のおふくろへの思いにつながり、涙が抑えられなくなってしまったのだ。
どうにか、「松田賢弥さん、ありがとう、そしてさようなら」と、絞り出すようにいって会を締めた。
終わった後、会に来ていた人たちから、「よかったよ」といわれたが、私にしてみれば、松田賢弥の死を悼んで泣いたのではなく、母親というキーワードに過剰に反応してしまっただけなので、恥ずかしい限りだった。
だが、何はともあれ、彼の偲ぶ会をやり終えたという安堵の気持ちと、これで松田賢弥という男はこの世には存在しないのだという実感がわいてきた。
松田よ、もうすぐそっちへ行くから、あの世で酒を酌み交わそうな。
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