『ちむどんどん』沖縄占領下で使われたのはドルだけではない―B円通貨をどう描くのか?
#沖縄 #朝ドラ
NHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』のロスがまだ癒えない中、沖縄を舞台にした新しい連続テレビ小説『ちむどんどん』が4月11日から始まった。舞台は米統治下の沖縄で今回も、前作同様アメリカが絡んでいる。
第1回の冒頭シーンで、黒島結菜(ゆいな)演じるヒロインの比嘉暢子(ひがのぶこ)が登場するのは、返還1年前の1971年(昭和46年)の沖縄。場面はすぐに7年前の64年(昭和39年)に移り、元気いっぱいの小学校5年で10歳の暢子(稲垣来泉/くるみ)が登場する。
路上でパイナップルが売られている場面が登場するが、価格は1ドルと記されていた。早々に日本円でなく米ドルが使われていた、米軍統治下の沖縄の様子がさりげなく描かれる。
「沖縄はアメリカの占領下にあるので米ドルを使い、車も右側通行」。このように小学校の社会科のクラスで習ったのを筆者も思い出した。
沖縄返還の1972年5月15日前後のテレビニュースだったか、沖縄の人たちが銀行に手持ちのドルを円に交換しようと長蛇の列を成しているのが映し出されたのは鮮明に目に焼き付いている。しかし、1945年の沖縄戦を経て、27年に及んだ米軍による沖縄統治で、米ドルは最初から使われていた訳ではなかった。
無通貨➡B円➡米ドル➡円 目まぐるしく変わる通貨
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月26日の慶良間諸島への米軍上陸から始まった沖縄戦は激烈な地上戦の舞台となり、戦闘によって日米合わせ20万人以上が死亡。沖縄県民の犠牲者は一般住民が約94000人、沖縄出身の軍人・軍属は約28000人が犠牲となり、沖縄県民の四人に一人が亡くなった。
激戦を制した米軍は、沖縄の行政権を停止して軍政下に置いた。戦火によってすべてが破壊し尽くされ、通貨経済の基盤となるものはすべて破壊された。
占領初期、沖縄県民は12の収容所に集められ、米軍から食料、衣類などが無償で配給されたが、体を動かせる者は米軍の雑役、沖縄戦の後片づけなどに駆り出されたという。しかし、賃金が支払われることはなく、報酬は現物支給だった。当時を知る元那覇市議によると、米国製タバコが価値の尺度としてよく、用いられたという。こうした通貨すらない「無通貨時代」が、通貨使用が再開される46年(昭和21年)4月15日まで約1年間続く。
米軍は同年3月25日に特別布告を出し、貨幣経済の再開を宣言する。そこに登場したのが米軍自ら発行するB型円軍票(B円)だった。同時に新たに発行された日本銀行券(新円)と旧円に証紙を添付したものも日本銀行券扱いとなり法定通貨となるが、やがて日本円との交換比率が1対1のB円に収れんされていく。48年7月には、B円が琉球列島(沖縄)における唯一の法定通貨となる。
日本円との交換比率も50年4月に、1B円=3日本円に改定され、58年9月に沖縄の通貨が米ドルに切り替わるまでこの為替交換レートが固定される。米軍はBドルに円の三倍の価値を持たせることで基地建設のための資材を本土から安く購入した。
しかし、B円は沖縄のみで使える通貨で本土では使えなかった。2017年5月9日付の「沖縄タイムス」紙には、名護市出身の映画技術師が大阪の映画館で働こうと米軍票であるB円を携えて大阪に渡航するも、「大阪では使えないことを知り、実家にそのまま送り返した」という当時の思い出話が紹介されている。
今回の朝ドラのヒロインである暢子が64年時、10歳だったということは逆算して54年生まれだったということになる。沖縄で使用される法定通貨が米ドルに切り替わるのは58年だから、暢子が生まれてから4歳になる頃までは、B円が使われていたことになる。
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