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日刊サイゾー トップ  > 上総広常の死で得をした人物と、願文の謎

上総広常の謎めいた死を『鎌倉殿』はどのように描くか 疑惑の人物と「直筆の願文」

上総広常の死後発見された「直筆の願文」にまつわるミステリー

上総広常の謎めいた死を『鎌倉殿』はどのように描くか 疑惑の人物と「直筆の願文」の画像2
梶原景時(中村獅童)|ドラマ公式サイトより

 また、上総広常の死から約1カ月後、寿永3年(1184年)正月17日の『吾妻鏡』の記述にかなり不自然な点が見られることも見逃せません。「上総一宮(=上総一ノ宮、玊前神社)」から、上総広常本人が奉納した「小桜皮威(こざくらかわおどし)の鎧」が、鎌倉の頼朝のもとに「なぜか」届けられることになったのです。『吾妻鏡』によると、この月の8日、上総一ノ宮の神主たちが、唐突に上総広常が存命だった頃に奉納した鎧がうちにはあると「なぜか」言い出したことをきっかけに、その実物を頼朝が「なぜか」見たがったので、鎌倉に届けられることになった……と説明されてはいますが、非常に唐突で、おかしな印象がありますよね。さらに、その鎧の中から頼朝の武功を祈願した上総直筆の願文が見つかったとしているのですが、これもどこか不自然な話です。

 上総の直筆といえば、ドラマの視聴者には、上総が密かに書の稽古をしていることを北条義時に明かしたシーンが思い出されたりもするでしょうが(そして、ドラマではあのシーンを鎧の中から直筆の願文が見つかる場面の伏線とするつもりなのでしょうが)、『吾妻鏡』によると、願文の日付は「治承六年(=1182年)七月吉日」となっていました。

 後年、『吾妻鏡』の編纂時にミスしてしまっただけの可能性もありますが、この「治承六年」にはかなり恐ろしい事実が隠れているような気もします。というのも、西暦1177年に始まった治承という年号は5年で終わるのです。1182年の夏頃には寿永元年という新しい年号が始まっています。

 『吾妻鏡』の注釈などには、「寿永」は平家ゆかりの安徳天皇にまつわる年号なので、反・平家の立場にある上総広常はあえて使わず、「治承」のままにしていたのでは、とする指摘もあるのですが、その『吾妻鏡』の中では普通に「寿永」が採用されていますからね。やはり、なにか不自然なものを感じてしまうのです。

 ドラマで描かれてきた上総広常は「オレは難しいことはよくわからねぇからよ」というキャラクターですから、元号をミスしてもおかしくないような人物像かもしれません。しかし、史実の上総広常は大豪族であり、大富豪であり、当時の教養水準は財産と比例することが一般的だと考えると、「年号を間違えている」=「上総本人が書いたものとはいえない」ことが推察できるのです。

 そもそも、千葉常胤とは異なり、上総広常が頼朝軍に合流した時期はかなり遅かったという事実から考えても、上総の参陣は正義によるものというより、損得勘定の末の決断であったことが考えられます。身分が高いはずの頼朝を、自分の同輩のように扱って小馬鹿にしたエピソードが目立つ上総が、平家打倒という大義名分に燃えていた人物だとはとても思えません。

  いずれにせよ、この願文が上総本人が書いたものではなかったとすれば、重要な年号を誤るというありえないミスが起きたのは、暗殺した上総を“許す”ための適当な口実を、頼朝とその周辺がとにかく急いで用意する必要があったからではないでしょうか。上総からの“呪い”を恐れた頼朝たちは、上総に無実の罪を着せたことだけでも公衆の面前で認め、上総の名誉回復を早急に行わねば……と考えたのでしょう。

 上総が鎧を上総一ノ宮に奉納していた事実を、頼朝サイドが突き止めたところまではよかったのでしょう。しかし、鎧の中に忍ばせる願文の作成で大きなミスが発生してしまったのではないでしょうか。十分にチェックをする時間がないほど、急ぎで代筆させられてしまったのか。あるいは、頼朝サイドと「代筆者」の間のやり取りが足らず、上総広常とはどういう人物だったのかというヒアリングが十分に行えなかった結果、「平家ゆかりの新元号など絶対に使わない!」という硬派な熱血武将のキャラクターとされてしまい、かえって不自然になってしまったのか。そのどちらかが“元号ミス事件”の真相ではないか、と筆者は思うのです。

 神仏に奉納する願文は、どんな身分の高い人物でも直筆ですし、本来なら本人や周囲が書き間違えなどのミスがないかを目を皿のようにしてチェックした後に納めるべきものです。仮に史実の上総が、ドラマで描かれるようにワイルドな人物であったとしても、部下によるチェックが行われないはずがありません。つまり年号を間違えた文書になってしまったのは、「上総ではない別の誰かが、上総が書いたように見せかける文章をとにかくすぐに仕上げるよう急かされたから」というのがもっとも筋の通る説明でしょう。

 しかも、頼朝らにとってきわめて不都合なことに、皆の前で願文が発見されるという“演出”を取ったがゆえ、その願文の年号ミスを『吾妻鏡』はそのまま記載せざるをえなくなったのでは……ということも推察されるのです。悪いことはできないなぁ、などとも感じてしまいますね。そもそも、願文の日付は上総が暗殺されたと考えられる1183年末から数えて1年以上も前であり、1183年末の上総に謀反の心がなかったという“証拠”となりうるのだろうか?という疑問も浮かびます。

 このように、上総の暗殺とそれに対し、公衆の面前での頼朝の謝罪と後悔という“パフォーマンス”のすべてに、罪の意識を軽減したかったという頼朝(とその側近)の弱気な姿勢が見て取れる気がする筆者でした。こういうところが、後に暗殺とも深読みできるような不審死を遂げ、『吾妻鏡』にも記述が省かれてしまった頼朝の末路を暗示してしまっているとも思われてならないのです。頼朝では武士たちの忠誠心を保つことはできなかったということでしょう。

 ドラマ第15回以降では上総暗殺に千葉家がどう絡んでいくか、そして頼朝の立場の変化を三谷氏がどう描いていくかを興味深く見守りたいと思います。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 12:36
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