エビデンスの有無で証言を疑う「はい、論破」は正しいか? 信頼できる“科学的証拠”の歴史
#社会 #ひろゆき #論破
陰謀論とエビデンス重視は似ている
――社会学者のニクラス・ルーマンが「科学システムは真/偽をコードとして作動している」と整理したのに対して、「本当/ウソ」という区別が抜け落ちている、という指摘を松村さんはされていましたが、これは現代の科学に対する信頼を考える上で大事なポイントですよね。
松村 科学は「証言」を排除する形で「真か偽か」だけ判断すればいい空間を作る方向に動いてきましたが、一方で「ウソ」を見抜くことは相対的には重視されていません。例えば、投稿された論文が掲載に値するかを複数の専門家がレフェリーとして「査読」するプロセスはありますが、「査読」は真偽の妥当性をジャッジするものであって、研究不正、「ウソ」を見抜くことまでは必ずしも期待できません。研究不正が発覚するのはネット上の告発によることも多い。つまり、「真/偽」の判断は科学の内部でできるけれども、「本当/ウソ」の判断は外部に頼っている部分があります。
必ずしも「ウソ」に限った話ではありませんが、最近では、実験の追試がなされない、あるいは過去の有名な実験を追試してみると再現できないという「再現性の危機」が問題になっています。先行研究の再現をしても業績にならないので研究者はやりたがらない、すると再現性が担保されていない研究が流通する。結果、意図的な研究不正も発覚しないままになってしまう。これをどう解決していくのかという問題があります。
――日本でカタカナ語としての「エビデンス」が普及したのは、1991年にカナダの医師ゴードン・ガイアットが提唱した「根拠に基づく医療」(Evidence-Based Medicine)の考えが入ってきて以降だそうですが、もともとは「エビデンスがあるかないか」のゼロイチではなく、どのくらい信頼できるのかという「強弱」が導入されていると。今、日本の世間一般でいう「エビデンス」だと、そういう「程度」に関するニュアンスが抜け落ちている気がします。
松村 論文とひとくちに言っても無数にあるわけで、互いに矛盾、対立する内容が書かれていることがままあります。学術論文上なら「A説とB説がある」と併記できるけれども、医療現場の臨床医はどの治療法が良いかを判断する必要がある。そういう場面では、エビデンスの「強弱」、言い換えると、どれがよりもっともらしいかの「序列」が大事になります。それに対し、日本での一般的な用法としての「エビデンス」はデータやソース(情報源)という意味に近く、単にその「有無」が問われます。
日本語でいう「証拠」は「物証」のイメージが強いですが、「エビデンス」という呼び方はこれと少しズレていて、データやソースといった根拠資料を広く指す言葉として使えます。そう考えると、インターネットの普及によって、口コミ・記事・写真・数値・図表といった雑多な資料が人々の周りに溢れるようになったことが、「エビデンス」という新語が多用されることになった一因なのかな、と。
今では一般の人が専門家に向かって「エビデンスはあるのか」と問うこともできますよね。しかしそう言うときに、多くの人は示された原典にあたって「エビデンス」を確認することよりも、「エビデンスを示せる人なら信頼できる」というように、人物ベースで信頼性を見分けることを欲しているように見えます。つまり、その人の「証言」が信頼できるかどうかを「エビデンス」の有無で判断している。
――なるほど、ある種「証言」回帰を可能にするために「エビデンスあるのか」という問いが使われている、と。本の終盤では、エビデンス重視を自認する人たちと陰謀論者が意外と近いスタンスである、という指摘もありました。
松村 昨今話題の陰謀論ですが、これは誰にとっても他人事ではないと思っています。膨大な情報が流通する中でなんでもかんでも信じると「情弱(情報弱者)」だと言われ、「騙されるヤツが悪い」と思われるわけですよね。だから、疑う。しかし、「ウソ」を暴くには、自分が「真実」の側に立つ必要がある。そういう需要を満たしているのが、「マスメディアに出てこない真実がある」といったタイプの陰謀論でしょう。その意味で、陰謀論は「証言」を評価する方法のひとつなのだと思います。陰謀論といってもメチャクチャなものもあれば、論拠となるデータ自体は存在する場合もあり、グラデーションがあります。後者は「エビデンス重視」に近づいていく。
何を信じているかは違うけれども、エビデンス重視も陰謀論も「信じる」より「疑う」ほうがベースにあるという意味では、同時代的な感覚を共有しているのではないかと見ています。
――ネットでは「論破」するとウケるので、「エビデンス」の有無や主張を裏づける手続きの正しさが軽んじられるという問題もあります。
松村 学問の議論は単なる論破ではなく、過去の研究で間違っていたところを修正して良いものにしていくことです。論破がもてはやされるのも、先ほど言った「疑う」ベースの感覚とつながっている気がします。とはいえ、一般の人が専門家を言い負かしたように見えたとしても、専門知が有用でなくなるわけではない。論破することと学問的に妥当かどうかは別の話です。論破には会話の中で他人を説得する技術が必須ですが、科学ではそうしたタイプの弁論技術は必ずしも重視されません。学者が公開討論やネットバトルのような論争に強いわけではない。
――そこはもう少し世間の理解が進むといいですよね。
松村 そういう弁論技術に関しても、歴史的に見て何か言えることはないかなと思っています。議論を組み立てる二大要素として「証拠」と「論理」があり、今回の本では「証拠」を扱いましたが、「論理」の歴史的な展開にも関心を持っています。例えば、「論理」と「説得」の間にはどのような関係があるのか。このあたりの変遷についても、今後、長期的に取り組んでいくつもりです。
松村一志(まつむら・かずし)
1988年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻相関社会科学コース博士課程修了。博士(学術)。現在、成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科専任講師。専門は社会学・科学論。今回の本が初の著書。
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