セーラー服はいつ女子校の制服に?「関東大震災で広まった」「福岡女学院が元祖」は事実無根!
#社会 #学校 #制服
全国の学校に足を運んで検証し、日本のセーラー服にまつわる「福岡女学院が元祖」「関東大震災後に広まった」「昭和天皇の即位式を期に広まった」といった俗説を実証的に否定し、実際にはどこが元祖で、どのように普及していったのかを書いた『セーラー服の誕生 女子校制服の近代史』(法政大学出版局)が刊行された。著者の刑部芳則氏(日本大学商学部准教授)にセーラー服の歴史をめぐる真実を訊いた。
着物の華美さを抑制する「標準服」
――セーラー服の起源はイギリス海軍であり、日本では明治5年(1872年)にセーラー服を帝国海軍が正式に服制として規定し、その後、学校に広まったそうですね。「日本初」はどこか論争があるけれども、実は争ってきた福岡女学院でも京都の平安女学院でもなく、名古屋の金城学院だと。ただし、どこか1校のセーラー服が全国に伝播したわけではなく、各府県でセーラー服を制定する高等女学校(高女)が現れて、それに触発されて次々と替わっていったと刑部さんは書かれています。
刑部 正確に言えば、日本にはまず海軍に入ってきた後、学校に入る前に「子供服」として入ってきていました。一部の皇族、華族といった上流階級にしか普及しませんでしたが、男女問わず着ています。そんなときに井口阿くりさんが文部省の留学生として体操を学んで帰国し、アメリカからセーラー服を「体操着」として今のお茶の水女子大学にあたる女子高等師範学校に導入しました。明治39年(1906年)、その動きを知った文部省が全国の各府県知事宛てに「今後はこれが学校の体操服として最適だ」と通達しています。でも、すぐに普及したわけではありません。大正8年(1919年)に生活改善運動、服装改善運動が起こった頃になってぽつぽつと体操服として採り入れられるようになり、セーラー服が通学服として広がっていきます。
――服装改善運動とはどんなものですか?
刑部 明治16~20年(1883~87年)に日本の女性に洋服を着る時代がやってきました。鹿鳴館の時代ですね。ところが、「着づらくて健康面に悪影響を与える」「高額だ」といった欠点が指摘されます。一方で、日本の着物も帯で締めて裾が見えないように歩かないといけないから、活動的でも健康的でもありません。そこで、和服と洋服の両方の欠点を克服して新しい日本人の服装を作ろうと。これが衣服改良運動です。でも、20年経っても決着がつきませんでした。それが、大正8年頃に文部省が有識者を集めて審議させた結果、「日本の成人女子の服装はやがて洋服になるのだから、未成年の子供服や通学服の女子生徒たちには洋服を推奨しよう」と決めた。これを受けて翌年以降、有識者として呼ばれていた学校経営者などが、自分の学校でまず実験的に洋式の制服に切り替える動きが全国にぽつぽつと出てきたわけです。
――庶民からではなく、お金持ちの子女から着るようになった?
刑部 高等女学校に通えるのは裕福な家庭に育って学力がある女性だけですから、ある程度の所得があるご家庭から始まったのは間違いないですね。
――東京女学館は華麗な生徒、服装がハデなことで有名で、学校側が通学服の華美さを抑制するために基準を設け、「標準服」を3種類提示したものの中にセーラー服があったと。セーラー服にすれば華美が抑制される、という発想が今から見ると面白いですね。
刑部 洋式の制服が普及する以前に女学生は着物に袴を着ていましたが、袴には学校が指定した色などの決まりがあって、勝手に替えてはいけません。ところが、上の着物は何を着てもよかったわけです。学校では「華美な服装はやめるように」と生徒に伝えて袖を短くするよう決めたりするのですが、生徒たちは守りません。袖の短い着物は格好が悪いですからね。そして華やかな模様や図柄を好んで着ます。そういう状況に学校側は悩んでいたのですが、セーラー服にしてしまえばそれ以外のものを着なくなり、華美な服装を抑制できます。
――「標準服」から「制服」に切り替わっていったのはどんな流れからですか?
刑部 大正9年、10年(1920年、21年)はまだ着物に袴が圧倒的に主流でしたから、洋式の制服に切り替えると費用がかかりますし、強制すると親御さんや生徒からの反対もあるだろうということで、「やれる人から」という意味で「標準服」を設ける学校もありました。ところが蓋を開けてみると、セーラー服は生徒からの強い支持があり、それならということで公立の学校は比較的すぐ制服になっています。私立でも例えば、フェリス女学院は大正11年(1922年)に標準服に、大正13年(1924年)に制服になっています。それまでは着物に袴が魅力的だと生徒たちには思われていたのが、急速にセーラー服に移っていきました。ただ、ミッション系の私立はのちのちまで生徒の自主性を重視して服装を選べるようにしていた学校が多く、日中戦争(1937~45年)が始まっても着物に袴の子もいました。
大正末の銀座で洋服の女性は1%
――「関東大震災後に『和服だとうまく走れず逃げ遅れる』という社会通念ができてセーラー服、洋服が広まった」という俗説は誤りだと指摘されていました。影響はなかったのでしょうか?
刑部 関東大震災は大正12年(1923年)に起きましたが、日本で最初のセーラー服は大正10年(1921年)で、金城学院など複数の学校が大正10、11年頃には導入しています。ということは、服装改善運動の影響のほうが先にあり、かつ、大きかったわけです。関東大震災があろうがなかろうがセーラー服の普及は進んでいったと見るべきです。
また、大正末期や昭和初期に日本女性の半数くらいが着物を捨てて洋服で生活するようになっていれば「関東大震災の影響は大きかった」と言えたでしょうが、そんなことはありません。大正14年(1925年)にある社会学者が銀座の街で、通行人の女性の服装に関する統計を取っています。洋服を着ている女性は1%だけ、99%は着物でした。
ある服飾学者が「昭和10年代(1935~44年)には洋服を着る女性が増えた」と書いていたので、私も当時の婦人雑誌を全部調べてみたのですが、確かに雑誌の中でアンケートが取られていて、全国平均約26%が着ていた世代もありました。しかし、それはほとんどが10代から20代です。つまり、女子生徒や職業婦人です。セーラー服を着ていた小学生や高等女学生がかなり含まれていますから、洋服を着ていた成人女性は戦前にはほとんどいません。ということは、関東大震災の影響があったとは言えません。
――昭和天皇の即位式(1928年)の記念事業として高女の洋装化が図られたという説も事実無根だと。
刑部 そうですね。これも私が全国調査した限りにおいて、即位式の年、翌年、翌々年に急激に増えたとは言えません。もちろん昭和2~5年(1927~30年)頃に切り替えている学校はありますが、一挙に号令がかかったように切り替わったという事実はないし、誰かがそういう号令を出したような事実もないです。裏付ける史料がありません。
先輩後輩の絆と肉体労働者との区別
――今では制服といえばブレザーもありますが、ブレザーは縫製が難しくて仕立屋にお金を払って注文しなければならないのに対して、セーラー服は直線的裁断の平面的構成のために、和裁の技術を利用して女学生でも自分たちで作れて、費用も安く済んだことも普及の一因だろうと書かれていて、面白い指摘だなと思いました。
刑部 高等女学校は「良妻賢母」を理念にしていました。当時は外で働かず、家庭で主婦になることが女性の幸せだと社会的に思われていました。着物を外で買わずに自分で縫って安く済ませられるのがいい妻、いい母だということで、和裁の授業がありました。その後、服装改善運動の流れとセーラー服の導入があり、ミシンを使った洋裁が授業に入ってきます。当時の高女は4年制か5年制でしたから、卒業する頃にはセーラー服を作れるようになっていて、それを作ることで成績をつける学校が多くありました。そうして作ったものを新入生にプレゼントします。生地の代金は1年生の親御さんが負担しますが、学校の先輩が作ってくれるから仕立代はかかりません。新入生は先輩に対する愛情が生まれ、先輩は後輩が着てくれてうれしいと感じます。こういう一石三鳥のメリットがありました。ところが、ブレザーは背広と同じく洋服店に丁稚奉公で10年修行してやっと作れるようになるものですから、高女の生徒が数年取り組んだ程度では作ることができません。かつ、当時のブレザーはダサいものが多く、生徒には好まれていませんでした。
――セーラー服では先輩後輩の女性の絆が生まれていた一方で、ブレザータイプの制服を着る高女の生徒はバスの女性車掌の制服と自分たちの制服が似ていて、街中でバスガールと間違えられると憤慨していたそうですね。
刑部 バスガールや女工のような肉体労働は小学校しか卒業していない女性が家庭のために就くもので、高女を出た女性が就く仕事ではありません。ですから、エリート意識の強い高女の生徒は一緒にされたくなかったんですね。今で言えば職業差別、階級差別ですが、セーラー服なら間違われない。これは、彼女たちにとっては重要なことでした。
――セーラー服が庶民のものにもなるのはいつ頃ですか?
刑部 いつからとは明言できませんが、学校の制服の中ではもっとも安いものでしたからね。昭和戦前期の小学校の卒業写真を見るとだいぶ着ています。
軍国主義ではなく自由と平和の象徴だった
――太平洋戦争が始まった昭和16年(1941年)には文部省標準服であるヘチマ襟の国民服を着なければならず、生徒たちはそれが不満だったそうですね。セーラー服を着ると世間から目の敵にされたけれども、それでも着続ける生徒たちが少なからずいた、と。
刑部 私の祖母も高等女学生でしたが、「戦争に突入するとヘチマ襟を着ないといけないと言われたけれども、ほとんど誰も着てなかったわよ。着ている子は『かわいそうね』と思われていた」と話していました。戦前の女の子たちにとってはセーラー服は魅力的なもので、自ら好んで着ていたものでした。戦後になってセーラー服からブレザーに制服のデザインを切り替えた理由として、「軍国主義的だから」という主張をしていた人もいましたが、これは当時を知らない人の発想ですよ。女学生にとってはセーラー服とスカートこそが自由と平和の象徴であり、ヘチマ襟とモンペ・ズボンこそが軍国主義の象徴だったんです。
――今のセーラー服が置かれた状況をどう見ていますか?
刑部 絶滅危惧種ですよね。私が本を書いた動機でもありますが、なんとか復活させたいという気持ちがあります。もちろん、なかなか難しいことはわかっていて半ば諦めてはいますが、ただ例えば大学の卒業式の日にはみんな着物に袴を着るわけです。それは、1980年代後半にメディアが「今のトレンドはこれ」と取り上げたことに貸衣装屋が乗ってきたからですよ。日本人はブームに弱いですから、セーラー服もメディアで注目されれば部分的に復活することもできるかもしれません。私は昭和歌謡史の研究もしていますが、今なぜか平成生まれの若い人たちが昭和歌謡に夢中になっています。だったら、学ラン、セーラー服もレトロを好む心性に沿う形で復元、復活することで生徒集めに使う学校が出てきてもいいのではないかと思っています。
刑部芳則(オサカベ・ヨシノリ)
1977年、東京都生まれ。中央大学大学院博士後期課程修了。博士(史学)。中央大学文学部日本史学専攻兼任講師を経て、現在は日本大学商学部准教授。専門は日本近代史。2018年度のNHK大河ドラマ『西郷どん』軍装・洋装考証。2020年度のNHK連続小説ドラマ『エール』風俗考証を担当。『武田鉄矢の昭和は輝いていた』(BSテレ東)などテレビ出演多数。著書に『洋服・散髪・脱刀』(講談社選書メチエ)、『明治国家の服制と華族』『三条実美』(共に吉川弘文館)、『帝国日本の大礼服』(法政大学出版局)、『公家たちの幕末維新』『古関裕而』(中公新書)など多数。
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