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「鎌倉殿」という言葉が背負う背景と、「階級闘争」としての大河『鎌倉殿』

“東国の王”としての「鎌倉殿」

「鎌倉殿」という言葉が背負う背景と、「階級闘争」としての大河『鎌倉殿』の画像2
御所での頼朝ら|ドラマ公式サイトより

 また、鎌倉幕府の成立がいつかという問題は、「鎌倉幕府とは何か」という問題にも置き換えられます。たとえば近年の歴史研究では、一般的には「源平合戦」とひと括りに表現される「治承・寿永の内乱(1180-1185)」の最中に成立したと考える研究者が増えているのだとか(しかも前述の6つの幕府成立年候補のうち、1-5を包括)。要するに、平家と互角かそれ以上に戦えるだけの力が頼朝の軍事政権に備わっていく中で、東国の軍事政権=鎌倉幕府がいつしか完成していた……というわけですが、一番妥当な考え方かもしれません。

 筆者の考えでは、「鎌倉殿」という言葉は、ドラマのように坂東武者たちの中から出てきたというより、京都側からの視点を強く感じるものです。前回のコラム(こちら)で、「富士川の戦い」において坂東武者のフィジカルやメンタルの強さを聞いた平家側が怖気づき、水鳥の羽音に驚いて恐怖が爆発、逃走してしまったという情報を補足しましたが、京都側から見て、坂東の人間は得体のしれない野蛮人なのでした。

 そんな野蛮人たちを従わせている源頼朝は、「官軍」平家を追い詰める、恐ろしい謀反人として当初は捉えられていました。こうした背景――たとえば強大な軍事力や豊富な資金源、坂東武者の荒々しい気性を京都の朝廷上層部にチラ付かせ、脅すことで、頼朝は朝廷支配から独立した独自政権としての地位を確立するに至ったのです。

 こうして頼朝は1192年に征夷大将軍に任命されるわけですが、奈良~平安期からあるこの役職は、朝廷の敵を倒すという任務を遂行するためだけに、強大な軍事権を一時的に有することができました。ちなみにその権力の象徴が、朝廷から将軍職に就いた者に与えられる「節刀(せっとう)」です。戦が終われば、刀を朝廷にお返しすることで、権力も返上するという掟がありました。

 頼朝は、わりと熱心に将軍職に就きたいと朝廷に働きかけ続けていたのに、実は将軍に就任してからわずか2年でその職を朝廷に返上しています。後年、頼朝の長男・次男である頼家、実朝も結果的に将軍の職に就いていますが、これは朝廷からその官位を与えられたという「だけ」なのですね。この理由について考察していると大変長くなるので、ここでは頼朝の“変心”にのみ注目してみましょう。

 頼朝は、自ら手に入れた「鎌倉殿」に比べて朝廷からいただいた将軍職はさほど重要ではないと判断し、返上するに至ったのでは、と筆者は考えています。もしかすると、関東の独立軍事政権を支える坂東武者たちを束ねるにあたって、朝廷からの官位をうやうやしく大事にしている姿を見せるのは彼らの反感を買ってしまうだけだと感じたのかもしれません。

 こうした「鎌倉殿」こと頼朝(たち)の態度は、京都側にはいっそう不気味に映ったのではと思われます。官位の軽視は、朝廷の権勢に対する否定とまでは言わずとも、疑問符を付けているのと同じことです。日本が京都と鎌倉で分裂してしまった……京都の朝廷の人々はそう感じていたことでしょう。京都側から見れば、鎌倉殿は「恐怖の大王」ともいうべき存在だった……などというと言い過ぎでしょうか。

 このような背景を「鎌倉殿」という用語は背負っているというのが、筆者の私見です。ドラマではせいぜい「1180年(治承4年)10~12月 鎌倉を拠点に軍事政権が成立」くらいの状況でしょうから、坂東武者の中から「鎌倉殿」の用語が本当に出てきてよいの?というようなことも考えてしまうのです。もっとも、ドラマで「鎌倉殿=鎌倉に本拠地を持つ、北条の血を引く坂東武者たちのリーダー」という“拡大解釈”が(おそらく)なされているのは、そうした歴史的な観点からの違和感を中和するための三谷流の工夫なのかもしれませんね。

 皮肉なことに、「鎌倉殿」こと源頼朝の権威は、彼自身が京都に(大部分の期間)不在だったことでいっそう高まったとされています。京都および西国の支配は、頼朝の弟である源義経と範頼が「鎌倉殿代官」という触れ込みで行い、頼朝自身は鎌倉から一歩も動かず、采配を振るうだけ。まるで京都にいる天皇がそうしてきたように……。

 鎌倉に拠点を置いたとき、頼朝の居住する建物は「御所」と呼ばれていました(ちなみにその別名が「幕府」です)。天皇や皇族方の居住する建物と同じ呼び名になっていることは興味深いですよね。それほど頼朝の権力が強かったことを表していると捉えることもできるでしょう。そこからは、頼朝の時代の「鎌倉殿」が指すのは、「征夷大将軍としての頼朝」ではなく、「東国の王としての頼朝」であるということが透けて見えてくるのではないでしょうか。

 一介の流浪人から、そこまでの地位に成り上がっていく頼朝。そして彼を支えると見せながら、坂東武者たちの長としての地位を確立していく北条時政・義時親子の暗躍が、今後のドラマのコアになっていくでしょう。『鎌倉殿』はやはり「階級闘争」の物語になりそうですね。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 12:38
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