富野由悠季「皆殺しの富野」と恐れられアニメで人間を突き詰め続けた監督の思想をどう展示したのか?
#戦争 #ガンダム #富野由悠季
演出技法という“概念”を展示する難しさ、どう立ち向かう?
そして2021年。青森美術館で行われた富野展に本人がやってきた。ドキドキの瞬間だ。
虫プロ時代の回顧録を掲示している一角では、貴重な資料を手で触ることはできないのでケースに入れられているが、小さすぎてそのままでは読めないため拡大したコピーを張り出して現物と一緒に見られるようにしてある。工藤の判断に富野は「空気感が伝わる」といい「所詮並べ方の問題」としながらもm展示の仕方がよほど気に入ったのか富野はこの仕事を絶賛する。『機動戦士ガンダム展 THE ART OF GUNDAM』の時とは大違い!
富野は演出、制作進行として業界に入り、アニメーターとして監督になったわけではない人物なので、展覧会をやっても自分で描いたアニメの絵が貼られるわけではない。絵は他の人間が描いたものなのだ。だから展覧会は「概念」の提示になるわけで、概念はどう提示するのか?
学芸員の工藤は概念とは思考なので、富野が作品を発案し、企画を練り、資料を通じてひとつの作品として出来上がっていく過程、その編成を追えば「富野の概念」として提示できるのではないかという。
富野は日本のテレビアニメーション史をつくった人間のひとりで、巨匠であることは間違いないが展覧会場を見届けた富野は
「自分には才能などないとこの20年間ではっきりとわかった」
という。
20年前といえば00年代の始まりの頃、富野は『∀ガンダム』を制作している。それに先立つ98年に発表した『ブレンパワード』でそれまでとは違う路線に挑戦していたわけだが富野はなにゆえ「才能がない」と言い出したのか?
1941年11月、太平洋戦争の開戦を間近に控えた頃、富野は生を受ける。父は軍需工場で零戦に乗るパイロットのための与圧服の開発に関わっていた。まるで宇宙船の搭乗員が着るような服の資料と戦後に輸入されたアメリカのSF映画を見た富野は宇宙に思いを馳せる。
富野展には少年時代に描かれたロケットや飛行機のスケッチ画や図鑑から模写したイラストまでが展示された。驚くべきは飛行機の内部構造や地球の内側といったものまで書き込まれ、人間が活動するための必要なカロリー数まで描かれているとあっては脱帽するしかない。外見だけでなく、中はどうなっているのかという部分を見ているのは将来、演出する上で強い武器になったと思われる。
10代後半になると模写だけでは飽き足らなくなったのか、富野は架空の戦闘機、戦艦といったものを描きはじめる(もちろん三面図、図解つきだ)。メカだけではない、飛行機が発着する飛行場も描かれている。「設定画」が存在しているあたりに後の「演出家」としての才気を感じさせる。
だが富野は、アニメを作りたくて業界入りしたのではない。
日大の映画学科に進学した富野は実写映画の演出家を目指したが、彼が卒業する60年代は日本映画が斜陽時代に差し掛かっていた時期。50年代には10億人といわれた観客動員はこのころ、半分にまで落ち込んでいた。映画会社は新卒採用を止め、縁故入社しかできなかった。映画会社への就職をあきらめた富野は演出ができるという理由で手塚治虫が社長だった虫プロの門を叩く。
虫プロで制作進行をしていた富野は手塚から直々に声をかけられ『鉄腕アトム』の演出を任される。SF映画を嗜んでいた富野の演出は評価され、シリーズ全体も誰よりも多い25話分の演出を手掛け、アトム終了とともに富野は退社しフリー演出家の道を選ぶ。
フリーとなった富野は誰よりも速く絵コンテを切れるというスピードを武器にあらゆる現場で仕事をしたが、この時挫折を味わう。5歳年上の高畑勲に出会ったからだ。
高畑の下『アルプスの少女ハイジ』で仕事をした富野は、些細なキャラの動きや背景の窓枠が「合ってない」と直しを要求され、あるコンテでは高畑が全面的に直しを入れ、富野の描いたコマはひとつしか残らなかった。
その完璧主義者ぶりは、後の富野を構成するピースのひとつになっただろう。
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