『鎌倉殿』の時代における愛人たち――頼朝の愛人「亀の前」と、義経の母の“愛妾説”
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源義経の母・常盤御前は平清盛の愛妾だったのか?
さて、お次は菅田将暉さんがさわやかに演じている義経についてです。『鎌倉殿』では、父・義朝を「平治の乱」で失い、母・常盤御前と過ごした少年時代のことは取り上げられることなく、彼の身柄を庇護してくれていた奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡(田中泯さん)のもとを旅立つシーンからの登場となりました。史実を重視すると、こういう初登場にするのが一番かもしれないな、と筆者も思います。
義朝の死後、彼の愛妾だった常盤御前は、3人の幼い男の子を抱え、平清盛に命乞いをし、後に清盛の愛妾の一人となってわが子たちの生命を救った……という逸話は有名ですね。
京都を脱出して隠れ潜んでいた常盤御前は、実母が平家に囚われたことを知り、都に子連れで戻ることを決心します。清盛は、決死の覚悟で自分に会いに来た常盤御前の頼みを無下にはできず、彼女の母親を解放し、後の義経を含む子供たちの生命を奪うこともしませんでした。また、清盛は健気な彼女に惹かれ、自分の愛人にし、のちに廓御方(ろうのおんかた)と呼ばれる娘も授かった……などという“物語”は、有名ではありますが、史実であるかどうかは疑わしいのです。この逸話は、フィクションといえる『平家物語』などにしか見られず、常盤御前と清盛が男女の関係になったという部分を裏付ける信頼できる史料はないといわれています。藤原(花山院)兼雅の妻の一人が、清盛の次女(名は不詳)とされる人物で、これを廓御方だとするケースもありますが、真実かを見極めるにはやはり情報が足りません。
それゆえ、常盤御前がなぜ自分の生命のみならず、後の義経である牛若丸など三人の男の子のことも救うことができたのか、その理由は正確には「よくわからない」というしかないのでした。
しかし「よくわからない」からこそ、創作物では面白く描くこともできるのですね。2012年の大河『平清盛』での常盤御前は、若き日の清盛が義朝と奪い合ったこともある、都一の美女として描かれていました。これは、清盛が自身の権力を背景に、自分のライバルの愛人だった女性を自分の愛人にしてしまうという行為に対して現代人が抱くであろう“不潔感”を和らげるための工夫だったと思います。
一方、宮尾登美子さん原作の大河『義経』(2005年)では、強者の男性に媚びを売ることでしか生き残れない弱者の女性の悲哀が、ほとんど隠さず表現されていました。ただ、『義経』の常盤御前はさすがに自分の子供たちには、亡き父を殺させた清盛の愛人になったという真実を話せず(話しづらく)、上の兄ふたりがいち早く出家する中(その一人が、『鎌倉殿』第7回で登場した阿野全成という僧侶です)、まだ赤子だった牛若丸(後の義経)は清盛を実父だと信じて思春期までを過ごすという設定になっていたと思います。
『平家物語』などでは、しかるべき時期に僧侶にさせるべく京都の鞍馬寺に預けられていた牛若丸が成長後、出家を拒否するようになり、承安4年(1174年)3月3日の早朝に寺を脱出し、奥州藤原氏の使いである金売吉次(かねうり・きちじ)などの手引を受けながら、奥州に向かう途上で元服し、九郎義経と名乗ることになったとされています。それにしても、「かねうりきちじ」という人物名は“いかにも”すぎて、これらの逃避行が伝説の物語であることを示しているかのようですが。
『義経記』などの文学では奥州を目指す頃の義経の行動が描かれていますが、青春時代の義経の素行が笑ってしまうくらいに極悪なのです。鞍馬寺時代の義経を訪ねてきた中に、共に奥州を目指そうと約束をしていた陵助重頼(みさぎのすけ・しげより/堀頼重とも)という人物がいました。しかし、彼は義経の旅路に同行しようとせず、誓いを破られたことに怒った義経は、彼の館に放火して報復するのです。放火は当時でも重罪なのですが、義経はあっけらかんとしたものでした。ほかにも「兵法書を手に入れたい」という目的達成のために女性を利用するだけして捨てたりと、なかなかのワルっぷりを次々に見せています。
これらはさすがにフィクションであろうとは思いますが、史実がはっきりしないぶん、完全なウソとも言いづらいのですね。ハチャメチャすぎる義経の姿からは、京都を抜け出した開放感を感じずにはいられません。
あくまで歴史エッセイストとしての個人的な感覚ですが、清盛と常盤御前はやはり男女関係にあり、それゆえに義経ら兄弟の生命は救われたと見る、伝統的な推測は“ただしい”のではないか、と考えます。しかし、その代償として、義経は京都では窮屈な思いをしっぱなしだったのかもしれません。『鎌倉殿』の本筋とは無関係ですが、こうした義経の知られざる一面を、菅田将暉さんにこそ演じてもらいたかったですね。
もし、タイムトラベルでこの時代に行き、常盤御前や義経にインタビューすることができたならば、彼らにとって平清盛とはどんな存在だったのかを聞いてみたいものです。しかし、「守ってくれる者がいない弱者は死ぬしかない」という当時の常識を考えれば、常盤御前や義経からは「生き残るためでした」とさも当然のように答えられた上に、キョトンとされて「え、それの何がヘンなのですか?」と逆に問われてしまうような気もしますが。
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