頼朝を勝利に導いた男・上総広常と「裏切り者」畠山重忠、それぞれの頼朝との関係
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『鎌倉殿の13人』第6回は内容が複雑なのに、あっという間に放送時間が終わってしまう流れの良さで驚かされました。
『吾妻鏡』などの史書によると、「石橋山の戦い」で惨敗した頼朝は、真鶴(まなづる、神奈川県西部)から、安房(あわ、現在の房総半島の南端)まで小舟に乗って逃走したとされます。このあたりも歴史学者の間では諸説あるのですが、どの説も(当然ながら)証明しようがありません。大河ドラマを一般視聴者が楽しむ上でそこまで大きな違いはないと思うので、今回は特に触れないことにしましょう。
脱出の経緯はともかく、房総半島の南端に命からがらたどり着いた源頼朝は、当地の武士たちと急速に関係を深めることで、かつてないほど勢力を拡大し、再起を遂げることになります。なかでも第6回の終盤に登場し、ネットの話題をさらった上総広常(佐藤浩市さん)は、頼朝を勝利に導いた男として注目されるべきでしょう。
頼朝が自分たちの戦力に決定的な勢いをつけるため、味方になってほしいという書状を出したのが、当地の大物武将である千葉常胤(ちば・つねたね)と上総広常(かずさ・ひろつね)の2人でした。両者ともに源氏とは深いつながりがある家柄です。
千葉は頼朝からの知らせを受けて喜び、すぐに加勢してくれましたが、『吾妻鏡』によると、上総は「千葉と相談させて」と返事し、慎重な態度を見せました。そういう背景をドラマで映えるように演出したのが、佐藤浩市さん演じる(三谷幸喜さんの最初の大河ドラマ『新選組!』の芹沢鴨ばりに)ニヒルな上総広常像になったようですね。ナレーションでも「頼朝の運命は今、この男の肩にかかっている」と告げられるなか、上総本人は、頼朝から送られた書状を読みもせずに握り潰して放り投げた態度もなかなか、ふてぶてしい人物だと思わせました。
史実の上総広常は、房総半島中央部(まさに上総地方)の有力豪族でしたが、源頼朝の父・義朝、そして(頼朝とは母親違いの)兄・義平の「郎党(いわゆる配下の武将)」として共に戦った経歴があります。しかし、義朝・義平父子の戦死後は、千葉の在所に戻っていました。平家からの追討を受けることは特にありませんでしたが、上総一族は先祖代々、領国で得てきた利益を、平家が送りこんできた伊藤忠清と奪い合うことになりました。これが頼朝軍に上総が味方した決定的理由です。
前回のコラム(「平家とか源氏とかどうでもいい」北条宗時の真意 ドライでシビアな当時の武士たち)でも、当時の武士はドライかつシビアに利益を追求したという話を書きましたが、上総広常という男もまさにそういう人物であったと思われます。ただ上総が千葉常胤のようにすぐに加勢できなかったのは、彼の二人の庶兄との抗争が続いていたからとも言われますが……。
上総が大軍を率いて頼朝に加勢した時の様子としては、2万騎(『吾妻鏡』)から1千騎(『源平闘諍録』)まで非常にばらつきがあるものの、鎌倉幕府の公式史である『吾妻鏡』がそこまで大きな数字を(おそらく実際より盛って)記したのは、上総の加勢が頼朝軍の勝利を決定づけたと言いたいからでしょう。
しかし、今後のネタばれになってしまうのですが、頼朝にとっては恩人であるはずの上総は、梶原景時の手によって、頼朝黙認の上で虐殺されることになります。それも、存在しない謀反の罪をかぶせられるという、不名誉な死でした。ここがドラマでどう描かれるのか見ものというしかありませんが、『吾妻鏡』によると、梶原は上総の残した(神社への)願文を発見しますが、そこには謀反を思わせるような内容はなく、「早とちりをしてしまった」と後悔したそうです。当然ながら、この事件は日本中が知るところとなり、頼朝は後年に上洛した時、後白河法皇から「なぜ上総を殺したのか」とも聞かれてしまっています。
頼朝は法皇からこう問われることを事前に想定し、答えを用意していたようですね。現代風にまとめると、頼朝は「上総は、関東を朝廷の支配から独立させようとしていたから殺しました」などと答え、それ以上の法皇からの問いかけを制することに成功しています。上総は「朝廷に良い顔をしすぎる必要はない」という旨の発言をしていたことで知られており、それを頼朝は悪用し、自らの度の過ぎた粛清を正当化して見せたのでした。頼朝、相当なワルだといわざるをえません。
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