映画『牛久』は外国人「収容」の実態を暴き、ダブルスタンダードな日本を追い込む
#入管 #稲田豊史 #さよならシネマ
「探究心」ではなく「使命感」で撮られている
この説明に思うところはある。ただ、単なる観客である我々に制作方針や編集方針にまで口を出す権利はない。洋食屋の暖簾をくぐっておいて、「なぜ焼き魚定食がないのか」とクレームをつける客にはなりたくない。
ふと作品のチラシに目をやると、アッシュ監督の言葉が引かれていた。
「私はボランティアとして牛久入管を訪れ、収容されている人たちの話を聞き、強い印象を受けました。人権侵害の目撃者として、自分に何ができるかを考えました。そして、拘束されている人々の証言を記録し、ここで起きている真実を外の世界に伝えなければならないという使命を感じたのです」
なるほど、アッシュ監督を駆り立てているのは「探究心」ではなく「使命感」だ。彼は牛久で何が行われているのかを調べる過程を、探究心の具現としてドキュメンタリーに仕立てたのではない。牛久で見聞きしたことを告発するため、使命感に燃えてこのドキュメンタリーを作った。
二者の違いは非常に重要だ。たとえるなら、前者は裁判の傍聴席に座っているルポライターの仕事、後者は裁判に当事者として参加している検察官の仕事である。
ルポライターは興味本位で事件を追い、その追跡プロセス自体を作品化して発表するために裁判を傍聴する。一方の検察官は「被告人に相応の罰を与える」という職務を遂行するために裁判所に赴く。
ルポライターは原告・被告・捜査関係者・世論などさまざまな立場の人の“言い分”を集め、最終的には自分の胸に問うて事件の本質を描き出す。検察官は「被告人に相応の罰を与える」にあたって有効な材料“だけ”を選び抜いて法廷に提出し、被告人を追い込む。
こうして考えると、ドキュメンタリーはその成り立ちによって「ルポライター型」と「検察官型」に分かれる。どちらが本道であるとか、どちらが正当であるとかいう議論にはあまり意味がない。そう分類される、というだけのことだ。
『牛久』は「検察官型」のドキュメンタリー
『牛久』は検察官型のドキュメンタリーだ。選び抜かれた事実を積み上げてじりじりと被告人を追い詰める、切れ味鋭い検察官の論告のダイナミズム。罪を犯した(であろうと検察官が確信する)者に罰をお見舞いする、“正義の一撃”という名のカタルシス。そのただ一点の目的に向かって物語は勢いよく、直線的に進む。迷いはない。
そういう成り立ちなのだと了解したうえで本作を鑑賞するぶんには、いいだろう。問題は、成り立ちを誤認識して鑑賞に挑んでしまった場合だ。
ある映画について大絶賛のレビューを見かけたのでそれを信じたら、実は主演俳優のファンが作品を盛り上げるために寄稿した応援文章だった(=ルポライター型だと思っていたら検察官型だった)。あるいは、推し作品を一心に愛でるオフ会だと思って会場に行ってみたら、アンチも参加するガチのディベート大会だった(=検察官型だと思っていたらルポライター型だった)。
マスコミ用のプレス(作品情報が書かれている資料)を事前に読まないで本編を鑑賞した筆者は、本作の成り立ち――検察官型であること――を観終わった後で認識した。もし、先に成り立ちを知ってから観ていたら、作品の印象は違うものになっただろうか?
『牛久』
2月26日よりシアター・イメージフォーラム他全国順次公開
©Thomas Ash 2021
監督・撮影・編集 アッシュ・トーマス
カラーグレーティング |オンラインエディター シン・へマント
作曲|寂空
演奏|寂空、こみてつ
タイトルデザイン|丸古実、山村ジェレミー(デンバク ファノ デザイン東京)
字幕・書き起し|原田 麻穂、石原 雪子
インパクトプロデューサー|ンデヴ・ダニエル
ディストリビューションプロデューサー|松井至 リサーチトプロデューサー| クレーン・ジョン
2021 年|87 分|DCP|16:9|日本|ドキュメンタリー 配給|太秦 © Thomas Ash 2021
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